杉浦則夫

提供:SMpedia
2010年4月12日 (月) 18:32時点におけるU (トーク | 投稿記録)による版 (→‎略歴)
杉浦則夫 (1942- )

すぎうら のりお 1942年(昭和17年)4月9日-


活動内容

写真家。

別名

Norio Sugiura

略歴

1942年(昭和17年)4月9日、名古屋生まれ[1]

1963年頃、デザイン専門学校に進むが中退。劇団ひとみ座[注 1]に大道具として入団[2][3]

1967年頃、兄の紹介[注 2]で浅草東洋劇場[注 3]の進行係・照明係</ref>[3]

1973年(昭和48年)、たこ八郎から団鬼六を紹介され鬼プロに参加[1][注 4]。最初はたこ八郎が中心のピンク芝居の制作に関わる。その後、SMキングの編集に参加し写真撮影技術を深めて行く[注 5]

1970年代後半、写真家として独立[注 6]。「SMセレクト」「SMファン」「SMマニア」「SM秘小説」の仕事。その後三和出版を中心に仕事。

1990年(平成2年)、株式会社杉浦則夫写真事務所設立。

2002年(平成14年)、HP「公式電網雑誌」を立ち上げる。

2005年(平成17年)頃?、HP「杉浦則夫緊縛桟敷」を立ち上げる。

2007年(平成19年)、久しぶりの濡木痴夢男とのコンビ撮影。

エピソード

代表作

映画

写真集

『昭和緊縛史』など多数。[1]などを参照。

引用資料

  1. 1.0 1.1 杉浦則夫緊縛桟敷より。
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 Kabukijoe氏によるインタビュー(2010)より。
  3. 3.0 3.1 私信 to U, 2010.4.12

注釈

  1. ひょっこりひょうたん島で有名な人形劇団。1963年11月から1年間TBS系で放映された『伊賀の影丸』の制作に携わっていた。
  2. 杉浦の兄は既に浅草東洋劇場にいた
  3. Wikipediaによると「東洋興業経営。軽演劇を上演。1964年、浅草フランス座を取り壊して開場。1971年上階にあった寄席・浅草演芸ホールが移転する形で閉鎖。」とある。杉浦によると、浅草東洋劇場は初期のストリップスタイルで、脚本家、コメディアン、楽団員から構成。
  4. 鬼プロへの参加が1969年、1970年ぐらいの可能性もある。
  5. SMキング時代は、メインは写真の編集であったようだ(Kinbakujoeインタビュー)。
  6. SM写真を集中的に撮り始める前に、1,2年一般エロ写真を撮影していた。マンボウ資料館にある『恋人たち』などがその時代の作品かもしれない。
  7. マンボウ資料館』より。

お役たちweb