「杉浦則夫」の版間の差分

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==エピソード==
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*[[濡木痴夢男]]とは[[三世社]]の紹介で知り合う。
*[[濡木痴夢男]]とは[[三世社]]の紹介で知り合う。
*[[濡木痴夢男]]とのコンビ作品ががいつから始まるのか不明だが、[[SMセレクト]]上に、[[杉浦則夫|杉浦則文]]の名前は遅くとも1975年(昭和50年)の7月号に出てくる(グラビア『七夕の育』)。同号には[[濡木痴夢男]]の『星まつりの虜囚』がある。同年11月号の[[杉浦則夫|杉浦則文]]のグラビア『家庭訪問』が[[濡木痴夢男]]の縛りのように見える<ref name="sentou"></ref>。
*[[濡木痴夢男]]とのコンビ作品ががいつから始まるのか不明だが、[[SMセレクト]]上に、[[杉浦則夫|杉浦則文]]の名前は遅くとも1975年(昭和50年)の7月号に出てくる(グラビア『七夕の育』)。同号には[[濡木痴夢男]]の『星まつりの虜囚』がある。同年11月号の[[杉浦則夫|杉浦則文]]のグラビア『家庭訪問』が[[濡木痴夢男]]の縛りのように見える。(1976年(昭和51年)11月号の「撮影同行記」を確認必要)。1977年(昭和52年)10月号では確実にコンビ活動をしている<ref name="sentou"></ref>。
*[[須磨利之]]の緊縛写真を撮る機会はなかった<ref name="U"></ref>。
*[[須磨利之]]の緊縛写真を撮る機会はなかった<ref name="U"></ref>。
*80年代は[[濡木痴夢男]]との仕事が主であったが、[[志摩紫光]]などとも仕事をした。若い世代では[[麻来雅人]]など。[[明智伝鬼]]、[[雪村春樹]]とはそれぞれ1回だけ仕事をしたことがある<ref name="Joe"></ref>。その他、[[奈加あきら]]、[[長田スティーブ]]、[[遥美沙樹]]などが杉浦と一緒に仕事をしている。
*80年代は[[濡木痴夢男]]との仕事が主であったが、[[志摩紫光]]などとも仕事をした。若い世代では[[麻来雅人]]など。[[明智伝鬼]]、[[雪村春樹]]とはそれぞれ1回だけ仕事をしたことがある<ref name="Joe"></ref>。その他、[[奈加あきら]]、[[長田スティーブ]]、[[遥美沙樹]]などが杉浦と一緒に仕事をしている。

2010年5月5日 (水) 07:31時点における版

杉浦則夫 (1942- )

すぎうら のりお 1942年(昭和17年)4月9日-


活動内容

写真家。いわゆる「昭和SM写真」と称される陰影の強い独特の様式を完成させたSM写真家。70年代後半から濡木痴夢男とのコンビで多くの作品を発表した。

別名

Norio Sugiura、杉浦則文[注 1][1]

略歴

1942年(昭和17年)4月9日、名古屋生まれ[2]

1963年(昭和38年)頃、デザイン専門学校に進むが中退。劇団ひとみ座[注 2]に大道具として入団[3][4]

1967年(昭和42年) 頃、兄の紹介[注 3]で浅草東洋劇場[注 4]の進行係・照明係。深井俊彦などとも仕事を共にする[4]

1971年(昭和46年)、浅草東洋劇場の閉鎖の後、たこ八郎から団鬼六を紹介され鬼プロに参加[注 5]たこ八郎が中心のピンク芝居の第1回目の制作に関わる。鬼プロは渋谷区桜ヶ丘のAGアパートにあった[4]

1971年(昭和46年)頃、本木荘二郎が監督する鬼プロのピンク映画の制作に、田代幸三と共に助監督として参加。3本ほど制作[注 6][3][4]

1972年(昭和47年)、SMキングの編集に参加し写真撮影技術を深めて行く[注 7][注 8]

1973年(昭和48年)、SMキング別冊、『辻村隆の世界』に始めて緊縛写真が掲載[注 9][4]

1970年代後半、写真家として独立[注 10]。「SMセレクト」「SMファン」「SMマニア」「SM秘小説」の仕事。その後三和出版を中心に仕事。

1975年(昭和50年)、SMセレクト小説SMセレクトで作品発表を開始[1][注 11]

1990年(平成2年)、株式会社杉浦則夫写真事務所設立。

2002年(平成14年)、HP「公式電網雑誌」を平田明と共に立ち上げる[4]

2005年(平成17年)、HP「杉浦則夫緊縛桟敷」を立ち上げる。

2007年(平成19年)、久しぶりの濡木痴夢男とのコンビ撮影。

エピソード

代表作

映画

写真集

『昭和緊縛史』など多数。[1]などを参照。

書籍

引用資料

注釈

  1. SMセレクト1975年(昭和50年)7月号、および10月号にこの名前が使われている。次に登場する1976年8月号では「杉浦則夫」となっている。
  2. ひょっこりひょうたん島で有名な人形劇団。1963年11月から1年間TBS系で放映された『伊賀の影丸』の制作に携わっていた。
  3. 杉浦の兄は既に浅草東洋劇場にいた
  4. Wikipediaによると「東洋興業経営。軽演劇を上演。1964年、浅草フランス座を取り壊して開場。1971年上階にあった寄席・浅草演芸ホールが移転する形で閉鎖。」とある。杉浦によると、浅草東洋劇場は初期のストリップスタイルで、脚本家、コメディアン、楽団員から構成。
  5. たこ八郎とは浅草時代に知り合っていた。たこ八郎は浅草の舞台には出ていた記憶はない。彼の芝居も観たことはなかった(私信 to U)。
  6. 本木荘二郎が黒澤のプロデューサーであったことは田代幸三も教えてくれなかったので、2010年まで知らなかった。お酒好きの優しいおじさんで、可愛がってもらった(私信 to U)。
  7. SMキング時代は、メインは写真の編集であったようだ(Kinbakujoeインタビュー)。
  8. 鬼プロはこの頃にはピンク芝居、ピンク映画は手を引いていた。
  9. 『倒錯の世界』の間違いか?確認中。全ての写真ではなく、一部が杉浦の作品。編集は杉浦と中原研一
  10. SM写真を集中的に撮り始める前に、1,2年一般エロ写真を撮影していた。
  11. 小説SMセレクトには杉浦則夫の名前で4月号に登場。SMセレクトには杉浦則文の名前で7月号に登場。どちらも一部の号の調査が未完のために修正される可能性もある(魂狩人氏調査)。
  12. マンボウ資料館』より。

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