3日で分かるSMの歴史

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2015年8月23日 (日) 18:01時点におけるU (トーク | 投稿記録)による版 (→‎2000年代(平成13年〜平成21年))

「SM」の意味

「SM」の「S」は「サド」を意味し、「M」は「マゾ」を意味する。それぞれ「サディズム」「マゾヒズム」から由来する。「サディズム」「マゾヒズム」は1886年(明治19年)にドイツの精神医学者クラフト=エビングが草案した言葉で、彼はこれらの言葉を18世紀に実存したフランスのマルキ・ド・サド、および19世紀オーストラリアのレーオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホの名前からとっている。簡単にいってしまえば、「サド=イジメる側の人」「マゾ=イジメられる側の人」で、人間関係のパワー・ダイナミクス意味する言葉と理解すればよい。日本では、「私、サドです」「私、Mです」といった表現をするが、英語圏では「TopとBottom」「DomとSub」などの表現が用いられる、なので「I am M」では、相手がよほどの日本通でないかぎり通じない。同様に「I am masochist」では、かなりディープなマゾ性をもつ人と思われるので要注意である。「SM」そのものの単語も英語圏には存在するが、かなり強いサド性・マゾ性を意味する時に用いるようで、どちらかというとBDSMという略号が、日本の「SM」に近いと思われる。

SMという言葉の誕生の誕生は意外と新しく、1950年代の前半に同時発生的にあちらこちらで使われ出した。面白いことに当初は「SM」と「MS」の両方が使われていたようだが、やがて「SM」に落ち着いている。1969年(昭和44年)ぐらいには、「SMマガジン」「SMセレクト」「SMファン」などタイトルに「SM」を含む雑誌が相次いで創刊される。

戦後70年のSM史

1940年代(昭和15年〜昭和24年)

「空気座」による「肉体の門」公演。『特集:ヴィーナスの誕生』季刊『the 座』第22号(こまつ座, 1992)より

 1945年(昭和20年)8月の第二次世界大戦の終戦と共に、それまで抑圧された生活を強いられていた人々のエネルギーが一気に爆発します。早くも同年の8月末には、日本SMの父とも言える「伊藤晴雨(いとうせいう)」が、浅草の「東京倶楽部(とうきょうくらぶ)」という映画館の地下で、『浅草名物見世物展』と題した挿絵芝居を開催していたという記録があります。ここでは、歌舞伎作品の中でも、責め場で有名な「紅皿欠皿(べにざらかけざわ)」の「伊藤晴雨」の手による絵が展示されていたようです。

 戦争末期にはほとんどの出版活動が停止しており、人々は活字に飢えていました。終戦後まもなく、後に「カストリ雑誌(かすとりざっし)」として分類される、粗悪な紙を用いたページ数の少ない雑誌が全国各地で非常にたくさん創刊され、そのほとんどは、すぐに消えていきました。後に、SM発展の大きな柱となる「奇譚クラブ (きたんくらぶ) 」も、このような「カストリ雑誌」の1つとして、1947年(昭和22年)10月に大阪から創刊されています。ただし、この段階では、特にSMに焦点をあてた雑誌というわけではなく、変わった話(奇譚)を集めた、典型的な「カストリ雑誌」の1つにすぎません。

 数多く発行された「カストリ雑誌」の中でも、摘発が相次ぎ、わずか5号で廃刊となった『猟奇』がその後のカストリ雑誌の方向性を決めることとなる重要な雑誌と位置づけられています。1947年(昭和22年)の第4号には伊藤晴雨の『虐げられたる日本婦人』が掲載されています。

 終戦の2年後にあたる、1947年(昭和22年)1月には、現在の新宿丸井本店に相当する場所に存在した「帝都座(ていとざ)」において、ストリップの原点といえる「額縁ショー(がくぶちしょー)」がおこなわれ、大変な人気を集めました。これは、半裸の女性が絵のように動かずに、大きな額の中で立っているというたわいのないショーでしたが、戦後すぐのその時期としては、画期的な出来事であったことが容易に想像できます。  おなじく「帝都座」で、同年の8月に、『肉体の門(にくたいのもん)』と題する芝居が、やはり大変な人気を集めて、ロングラン上演されました。ここでは、乳房を露わにした女性が、両手首縛りで吊り上げられて、折檻を受けるシーンが見せ場として含まれており、戦後のSMショーの原点ともいえる作品です。

 この頃は、雑誌と芝居・ショーが人々の娯楽の中心でした。「浅草ロック座(あさくらろっくざ)、「百万弗劇場(ひゃくまんどるげきじょう)」、「公園劇場(こうえんげきじょう)」などの多くの劇場が浅草などに新規開設され、色気たっぷりのショーで人気を集めていました。

1949年(昭和24年)に高橋鐵久保藤吉の協力を得て発刊した『あるす・あまとりあ 性交態位62型の分析』は60万部を超す大ヒットとなります。また、1948年(昭和23年)には、早くも16mmのブルーフィルムが製作されています。まだまだ人々の生活は安定せず、混沌とした状態ではありましたが、性を謳歌したいといったエネルギーに満ちていたのが1940年代の後半の5年間です。

1950年代(昭和25年〜昭和34年)

奇譚クラブ1952年(昭和27年)5月・6月合併号

 1940年代の終わりから始まるストリップのブームは、1950年代の初めに1つのピークを迎えます。1950年代のストリップは、現在、われわれがイメージするストリップとは大きく異なり、脚本家、演出家、コメディアン、楽団などを抱える大規模な職業集団でした。浅草には多くのストリップ劇場が集まり、いろいろな趣向をこらしながら人々の目を楽しませていました。「伊藤晴雨」も1951年(昭和26年)に、浅草の「百万弗劇場」で責めの芝居を上演しています。この「伊藤晴雨」の責めの芝居の成功に刺激されて、「浅草フランス座」でも責めのシーンを取り入れたストリップが上演されていたようです。「責めの芝居」とは、縛ったり鞭打ったりのSM的要素を多く含んだ芝居と考えてください。

 典型的な「カストリ雑誌」としてスタートした「奇譚クラブ」ですが、1952年(昭和27年)の春あたりから次第にSM色の強い雑誌へと変貌していきます。カストリ雑誌の発刊ピークは、既に1940年代に終わっていました。雑誌として生き残っていくためには、読者の心を強く掴むアイデンティティーが必要とされた時代です。「奇譚クラブ」は、SMやその他の多様なフェティシズムに興味をもつ人を購読者の対象とすることで、生き残りを図ります。これは、この頃に編集責任者となった「須磨利之(すまとしきゆき)」の影響によるものとされています。「須磨利之」は、「美濃村晃(みのむらこう)」「喜多玲子(きたれいこ)」などの多くのペンネームでいろいろな場面に登場する、日本SMの育ての母とも言える重要な人物です。

 「須磨利之」まもなく「奇譚クラブ」を離れ、上京してしまいますが、その後も「奇譚クラブ」は、「須磨利之」の拓いたSM路線を堅持し、読者を増やしていき、1975年(昭和50年)までの28年間にわたって存続しました。

 「奇譚クラブ」は、読者であるSMマニアからの投稿を積極的に受け入れたのが成功の秘訣と言われています。大きな宣伝をすることもなく、知る人ぞ知る、といったマニアのための雑誌として支持を受けていたのです。当時、サラリーマンであった、後の「濡木痴夢男(ぬれきちむお)」が、「青山三枝吉(あおやまみえきち)」のペンネームで、始めて「奇譚クラブ」に作品を投稿したのが1953年(昭和28年)11月号です。「濡木痴夢男」、「世田介一(せたかいいち)」、」「小妻要(おずまかなめ)」、「春川ナミオ(はるかななみお)」、「室井亜砂二(むろいあさじ)」等々、その後の日本SMの中心となって活躍する人々の多くが、「奇譚クラブ」への読者投稿という形で、そのキャリアをスタートしています。  1956年(昭和31年)12月号から、「沼正三(ぬましょうぞう)」による『家畜人ヤプー(かちくじんやぷー) 』の連載が開始されます。この『家畜人ヤプー』は、三島由紀夫澁澤龍彦寺山修司などの支持を受け、後の『花と蛇(はなとへび)』と共に、文芸作品としてのSM小説の地位を高めることになります。

 さて、「奇譚クラブ」を離れた「須磨利之」は、東京で、やはりSM色の強い「風俗草紙(ふうぞくそうし)」と題した月刊誌の出版に関与します。「風俗草紙」は(当時としては)過激な内容のために、当局による摘発が相次ぎ、1年あまりで休刊に追い込まれます。「奇譚クラブ」がひっそりとマニアのための雑誌をめざしていたのに対し、「風俗草紙」は、大々的に宣伝をおこない、一般の人々も読者対象にしていたことが、当局の摘発対象になりやすかったのかもしれません。

 「須磨利之」はその後、「奇譚クラブ」と並んでSM文化の柱となった「裏窓(うらまど)」の編集人を1956年(昭和31年)から引き受けます。「裏窓(うらまど)」は、『あるす・あまとりあ』の出版で大成功を収めた久保藤吉が、同年初頭に『かっぱ』として創刊した雑誌が誌名変更したものです。「裏窓」も1980年(昭和55年)まで続いた長寿SM雑誌の1つです。

 「奇譚クラブ」「風俗草紙」「裏窓」など、いずれも内容的にはSM色の強い雑誌ですが、まだこの頃には「SM」という言葉は一般的ではありません。この頃の他の雑誌のタイトルにも、「SM」という言葉は一切使われていませんし、雑誌の記事の中にも、「SM」という言葉が使われることは極めて稀でした。「責め」「残酷」「猟奇」「変態」などの表現が、「SM」という言葉の代わりに使われていた時代です。また、今と違って「SM愛好者」であることを知られてしまうことが、すなわち、社会的に抹殺されかねない重大な事態を招く時代であったことも留意すべきです。「奇譚クラブ」や「裏窓」を購読するというのは、われわれが現在想像する以上に、大変な勇気を必要とした時代でした。にもかかわらず、これらの雑誌は、長期にわたり、SM愛好者に支えられ出版を続けることができました。ちなみに、1950年代の後半は、エロに対する世の中の目が厳しい時代で、エロに対する摘発が相次いだ時代でした。「奇譚クラブ」もグラビア写真などをほぼ使わず、テキスト中心の地味な雑誌として、この時期を生きのびていました。この時期の「奇譚クラブ」の表紙画、白黒の地味なものであったことから、奇譚クラブの「白表紙時代(しらびょうしじだい)」と分類されたりもします。

1960年代(昭和35年〜昭和44年)

花巻京太郎『創作 花と蛇奇譚クラブ1962年(昭和37年)8月9月合併号, p156

 アマチュアSM愛好家として奇譚クラブ裏窓に小説を投稿していた、後の「濡木痴夢男」は、次第に執筆を本業とするようになり、1961年(昭和36年)には、とうとう「裏窓」の出版社であった「久保書店(くぼしょてん)」に編集者として入社します。当時の裏窓の編集長は「須磨利之」でしたが、「濡木痴夢男」は、「須磨利之」の後をついて、1962年(昭和37年)から同誌の編集長となります。「裏窓」の編集室には、「須磨利之」「濡木痴夢男」「椋陽児(むくようじ)」「浦戸宏(うらどひろし)」などの、その後のSM文化の鍵となる人達が席を並べていました。

 「奇譚クラブ」方に目をうつしてみましょう。「白表紙時代」には、写真や絵でエロを表現することが制限されていたために、自然と文章やエッセイでの表現活動に力が入ります。1962年(昭和37年)の8月9月合併号に、「団鬼六(だんおにろく)」の『花と蛇』の第1回目が掲載されます。ただし、まだこの時点は「団鬼六」という名は誕生していません。「花巻京太郎(はなまききょうたろう)」という名前での執筆です。

 「団鬼六」は、1950年代の後半に「黒岩松次郎(くろいわまつじろう)」の名で文壇にデビューしています。SM小説ではなく一般小説の書き手としてです。既に単行本も出版され、ある作品は映画化までもされるなど、期待の新人として順調なすべり出しを切っていたのですが、新橋でのバーの経営などに失敗し、1962年(昭和37年)頃は神奈川県三浦市で中学校の英語教師をしていました。

 「奇譚クラブ」は大学生の頃から読んでいたようなので、SM愛好家ということには間違いないのでしょうが、プロの一般小説家「黒岩松次郎」が、趣味と実益を活かして、1958年(昭和33年)頃から、「花巻京太郎」のペンネームで「奇譚クラブ」や「裏窓」に投稿していたのが実情です。同じように、三島由紀夫がペンネームを用いて「奇譚クラブ」に作品を投稿していたという話がありますが、その真偽は定かでありません。

 さて、「花巻京太郎」の名で発表した『花と蛇』ですが、「団鬼六」自身は長期連載を考えてはいなかったようですが、読者からの強い支持を受け、編集からの強い要望もあり、最終的には続編を含めて、奇譚クラブ1971年(昭和46年)まで続く、大長編SM小説となりました。1963年(昭和38年)7月号の第4回目から、作者が新たなペンネームの「団鬼六」の名に変更されていますので、この時点で「団鬼六」が誕生したことになります。『花と蛇』は、その後も出版社を変えながら何度も再版され、何回も映画化され、日本のみならず世界的にも知られたSM小説の代名詞のような存在になっています。

 さて、1950年代までは、雑誌、芝居(ストリップ)SMに関連した娯楽メディアの中心でしたが、1960年代に入るとそこに映画が加わることになります。映画そのものは、戦後すぐから娯楽の中心であったのですが、60年代に入るとちょっとした変化が生まれます。

 1960年代の初までは、大手映画会社がほぼ独占的に映画製作をおこなっていました。松竹東宝大映新東宝東映などです。ところが、1960年頃から、次第に大手映画会社に属さない、小さな映画会社による作品製作が始まります。大手映画会社をあふれたスタッフ達が表現の場を求めて自分達で製作会社を作ったという面もありますし、好んで自由度の高いこのような独立系の製作会社を好むといった流れもあったようです。いずれにせよ、大手と違って十分な予算のないこれらの独立系映画会社は、自然とより効率的に観客の注目を集めるために、エロチックな内容を含む作品が多く製作されることになります。これが、いわゆる1960年代前半の「ピンク映画(ぴんくえいが)」の誕生です。

 「団鬼六」に話を戻しましょう。「奇譚クラブ」の『花と蛇』で、SMマニアの間で次第に人気が上昇してきた「団鬼六」ですが、1960年代の中頃には、中学校の英語教師を辞し、再度に東京に戻ります。人気があったといえども、まだまだ「奇譚クラブ」などへの執筆だけでは、生活していくには不十分で、今度は、TV製作関係の会社に勤めていました。

 ちょうどその頃が「ピンク映画」の黎明期に当たります。「ピンク映画」が意外とお金になるということで、映画畑以外の、いろいろなところか、いろんな人が「ピンク映画」の製作に参入してきた時代のようで、TV関係者の多くも、「ピンク映画」の製作に関わっていたようです。

ヤマベプロ1965年製作『花と蛇』。成人映画1965年10月号より

 TV製作関係の会社で、当時の「団鬼六」の上司であった「山邊信雄(やまべのぶお)」もその一人です。もともと音響の専門家だった「山邊信雄」は、「ヤマベプロ(やまべぷろ)」と呼ぶ映画会社を興し、その第一作として「団鬼六」の脚本による『花と蛇』を1965年(昭和40年)9月に映画化します。「ヤマベプロ」は、その後も『奇譚クラブ 花と蛇より 骨まで縛れ』(1966)『縄と乳房』(1967)『鞭と肌』(1967)などのピンク映画を製作しますが、そのポスターには「奇譚クラブ」や「花と蛇」といった言葉がキャッチとして用いられています。

 この時代、これらのピンク映画を通じて、SMの存在を始めて知る人も少なくはなかったと思われます。団鬼六は、この頃、「ピンク映画」の脚本家として、多くの作品を残しています。

奇譚クラブ」や「裏窓」はSM愛好家が積極的に特定の本屋に出向かない限り目にすることはありません。一方で、「ピンク映画」の方は、書籍に比べると露出度が高く、映画館に貼られているポスターなどで、否応なく「奇譚クラブ」や「花と蛇」を目にした人達も多かったと想像できます。それまで一部の強い愛好家だけが密かに楽しんでいた世界が、次第にその門戸を開いていった時代が1960年代の後半と捉えてもよいかもしれません。

 ちなみに、『花と蛇』と言えば、1974年(昭和49年)の日活映画が有名ですが、この1974年(昭和49年) 『花と蛇』の主演女優であった「谷ナオミ(たになおみ)」もまた、1960年代にピンク映画女優としてデビューしています。1965年(昭和40年)の「ヤマベプロ」の『花と蛇』には谷ナオミは出演していませんが、1968年の『続・花と蛇 赤い拷問』あたりからヤマベプロの作品に多く出演するようになります。実はこの頃「谷ナオミ」は「山邊信雄」と事実婚状態にあり、そのつながりで「団鬼六」とも繫がりが強くなります。また、「団鬼六」は既に、「須磨利之」や、また後に名前が出てきます、「辻村隆(つじむらたかし)」、「賀山茂(かやましげる)」などといった、日本SMの形成の鍵を握る人達と親しく交際していましたので、これらの人々の相互作用から新しいSMの方向が生まれてきたのが1960年代の後半です。

劇団『赤と黒』 奇譚クラブ1968年(昭和43年)2月号より

 次に、1940年代から続く、ストリップや芝居の動きに目を移してみましょう。ストリップでは、1960年代の初めに「残酷ショー(ざんこくしょー)」と呼ばれるジャンルが人気を集めたようで、多くの「残酷ショー」をおこなうパフォーマーが生まれたようです。また、興味深いのが、この頃、ピンク映画の人気に合わせて、「ピンク実演(ぴんくじつえん)」という寸劇が開催されていました。これは、ピンク映画の上映の前に、舞台上で出演女優がちょっとしたお色気寸劇をおこなうもので、当時は大変な人気だったようです。この寸劇の脚本は、「団鬼六」や「濡木痴夢男」も書いており、当然のことながら、SMっぽい寸劇が上演されていました。また、映画とは独立して、ピンク映画の出演女優が中心となった劇団なども存在していたようで、東京駅の近くにあった、「カジバシ座(かしばしざ)」では、劇団「赤と黒(あかとくろ)」が、かなりSM色の強い芝居をおこなっていたようで、当時の「奇譚クラブ」にしばしばその話題が出てきます。

 ピンク映画の隆盛に伴い、次第にそのファン層を広めていくSM文化ですが、まだこの時点では「SM」という言葉は一般的ではありません。ピンク映画のタイトルにも「SM」という言葉は全く使われていませんし(60年代)、雑誌においても、ようやく1968年(昭和43年)春に「S・Mグラフ(えすえむぐらふ)」と題した雑誌が創刊され、また秋には、「サスペンス&ミステリーマガジン(さすぺんすあんどみすてりーまがじん)」が創刊され、その表紙にはタイトルの略号として「SM」が大きくデザインされています。マニアの間では、「SM」あるいは「MS」が、今で言うSMプレイを意味する暗号として了解されてはいたのですが、まだ、それを堂々と表に出すことは憚れた時代です。表紙には、「SM」とありますが、あくまで「サド」や「マゾ」とは関係なく、「サスペンス」や「ミステリー」を意味している、というのが建前です。雑誌の内容は、いわゆるSMものを多く含んでいました。

1970年代(昭和45年〜昭和54年)

SMセレクト1971年(昭和46年)6月号

 「奇譚クラブ」「裏窓」を中心に進展してきたSM雑誌文化ですが、1970年に入り激変が起こります。1970年(昭和45年)11月に、『実話雑誌』11月増刊号として東京三世社から「SMセレクト(えすえむせれくと)」が創刊されます。もはや、「サスペンス」や「ミステリー」の略号ではなく、ずばり「SM」です。「SMセレクト」の創刊には、「裏窓」の初代編集者であった「須磨利之」が協力しています。ちなみに「SMセレクト」の創刊時には既に「裏窓」は終刊しています。

 「SMセレクト」「奇譚クラブ」や「裏窓」との大きな違いは、編集者が必ずしもSM愛好者ではなかった点です。彼らは、ビジネスとして「SM」を前面に出すことが、成功のチャンスと見抜き、「SMセレクト」とそのものズバリの雑誌名にして、須磨利之のアドバイスを受けながら、一流の執筆家と絵師を集めて雑誌を作りました。これが大成功をおさめ、「SMセレクト」にいざ続けと、「SMファン(えすえむふぁん)」(1971)、「SMキング(えすえむきんぐ)」(1972)、「SMコレクター(えすえむこれくたー)」(1972)、「SMフロンティア(えすえむふろんてぃあ)」(1974) 、「SM奇譚(えすえむきたん)」(1975)、「S&Mスナイパー(えすえむすないぱー)」(1979)など、続々と新しいSM雑誌の創刊が相次いだのが1970年代です。

 これらの雑誌は、全ての書店というわけではありませんが、かなり広い範囲の書店で取り扱いされており、人気雑誌はレジの横に平積みされている程でした。したがって、このSM雑誌ブームにより、飛躍的にSM愛好者の人口が増えたのは間違いないでしょう。

 「奇譚クラブ」や「裏窓」と異なり、1970年代のSM雑誌は、カラーグラビアに力を注いだのも特徴です。既に「裏窓」のグラビアで緊縛を担当していた「濡木痴夢男」も、これらの新しいSM雑誌のための緊縛を担当する機会が増えていきます。「濡木痴夢男」という名前が始めて使われたのは、1973年(昭和48年)の「SMセレクト」2月号の誌上です。1974年(昭和49年)8月頃には、その後の昭和SMのテイストを決定的にした緊縛の「濡木痴夢男」とカメラマンの「杉浦則夫」のコンビが誕生しています。

 「杉浦則夫」の経歴について紹介しましょう。少しさかのぼりますが、1969年(昭和44年)に、「ピンク映画」の可能性を認識した「団鬼六」が自ら「鬼プロ(おにぷろ)」を設立します。それまで、どちらかというと「山邊信雄」のパートナーだった「団鬼六」が、自らが率先して「ピンク映画」や、その撮影時のスチールを流用した写真集を制作していきます。この「鬼プロ」の設立に最初から参加したのが、元プロボクシング日本王者で、引退後にコメディアンに転向した「たこ八郎(たこはちろう)」です。「たこ八郎」は「ヤマベプロ」のピンク映画にも出演していた縁で、「団鬼六」とつながっていました。「たこ八郎」はコメディアンとして浅草のストリップ劇場に出入りしていたようですが、そのつながりで次に「鬼プロ」に参加してきたのが、当時「浅草東洋劇場(あさくさとうようげきじょう)」の進行係・照明を担当していた「杉浦則夫」でした。「鬼プロ」に参加した「杉浦則夫」は、いくつかのピンク映画の助監督もしていたようですが、やがて「ピンク映画」そのものの勢いがなくなってきてしまい、機に敏な「団鬼六」は、すばやく「SM雑誌」にその軸足を移し、1972年(昭和47年)の「SMキング」の創刊をおこないます。「SMキング」には、「団鬼六」との個人的なつながりが強かった「須磨利之」「辻村隆」「谷ナオミ」などが登場しました。「杉浦則夫」は、この「SMキング」の編集に携わるかたわら、写真の撮影技術を独習し、後の「濡木痴夢男」とのコンビによる、独特の昭和SMテイストを作り上げていくことになります。

 1970年代にはまた「ビニ本(びにほん)」と分類される、一般書籍とは異なる流通経路をもつエロチックな本が流行し、いくつものビニ本出版社が誕生します。もちろん、SM愛好家を対象とした作品も多く含まれていました。

中島貞夫監督『セックスドキュメント 性倒錯の世界]』(東映, 1971.10.14) の中での団鬼六辻村隆の対談。

 1970年代は、60年代後半の学生運動の流れを受けて、若者を中心に「エロス」を肯定的に生活の中に取り入れようとした時代でもありました。新しい都会文化の1つとしてSMがマスコミに取り上げられる機会が増加します。また、1960年代前半のピンク映画ブームは、大手映画会社の戦略にも影響を与えます。1960年代の終わり頃には、既に東映が『異常性愛路線シリーズ』と銘打ち、『徳川女刑罰史』(1968)、『残酷異常虐待物語 元禄女系図』(1969)、『徳川いれずみ師 責め地獄』(1969)といった、強烈なSM名作を発表します。この東映映画の製作には、「奇譚クラブ」の中心メンバーで、SM実践家として一目置かれていた「辻村隆」が緊縛指導として参加しています。辻村隆は、教育関係に正職をもちながらも、自らがSM愛好家であることを堂々と告白し、「11PM(いれぶんぴーえむ)」などの大人向けTV番組への出演や、映画への出演、雑誌インタビューなどで、積極的にマスコミを利用して、SMの紹介をおこないました。それまでのSM愛好家が、どちらかというと、ひたすら自らがSM愛好家であったことを隠そうとしていたことと対照的です。「奇譚クラブ」や「裏窓」などの1950年代のSM雑誌が、SMを前面に出さなかったのに対し、1970年代の雑誌がSMを前面に出すといった新たな戦略をとっているのも、こういった時代背景を反映しているものと考えてよいでしょう。

 このような状況下、1971年(昭和46年)11月には、「日活ロマンポルノ(にっかつろまんぽるの)」がスタートします。これは、経営難におちいっていた日活がとった苦肉の策ではありましたが、大手映画製作会社が堂々とエロ専門作品を制作するといった世界にも類を見ない珍しい路線変更として注目されています。この「日活ロマンポルノ」の1作品として、1974年(昭和49年)に谷ナオミを主演とした『花と蛇』が作られます。この作品がまた、大きく観客を集めることになり、その後も、『花と蛇』や『団鬼六』の名を冠した「日活ロマンポルノ」作品が続々と制作され、ますますSMの愛好者人口が増えることになります。ちなみに、この「日活ロマンポルノ」のSM作品の多くで、緊縛を担当していたのが、「裏窓」の編集を担当していた「浦戸宏」です。

 1970年代には、SMショーにも大きな動きがありました。「エロス」を忌み避けたり、隠したりするのでは無く、積極的に自己表現の1つとして利用したのがこの時代の文化の流れです。演劇分野においても例外ではありません。「エロス」と「ヴァイオレンス」を中心に据えて大きな注目を集めたのが、大阪を中心に活動していた「玉井敬友(たまいけいゆう)」です。やはり11PMのTV媒体や雑誌媒体を用いて、注目を集めていきます。「玉井敬友」自身は、SM愛好家ではなかったようですが、SMが当時の人々の心を掴むことを見抜き、それを効果的に使ったという点では、ピンク映画やSM雑誌の編集者などと共通する点があります。このように、SM文化が、かならずしもSM愛好家だけによって形成される訳ではなく、時として非SM愛好家ながらも、SMの持つ力を正確に認識している人々によって新たな展開がひらかれるところが、文化史の面白いところです。

 大阪での活動で人気を集め出した「玉井敬友」は、本拠地を東京に移し、劇団「シアタースキャンダル(しあたーすきゃんだる)」を結成、ますますSMを前面に押し出した演劇活動を活発化します。この時に、「玉井敬友」がSMのアドバイザーとして招き入れたのが「長田英吉(おさだえいきち)」です。

 ここで「長田英吉」のことについて説明しておきましょう。大正生まれの「長田英吉」は「奇譚クラブ」を読みながら青年期を過ごします。特に芝居を通じたSMの表現に興味が強かったようで、ストリップの「残酷ショー」や劇団「赤と黒」など、さらに「向井一也(むかいかずや)」が主宰していた劇団のSMショーをよく観にいっていたようです。やがて、1960年代には「長田英吉」自身が自らSM劇を主宰していたようですが、ほとんど記録が残っていたいために、その詳細は不明です。

 「玉井敬友」は大阪時代に既に上記の「向井一也」を招聘してSM劇の公演をおこなっていたようです。これが縁で、当時「向井一也」とつながりのあった「長田英吉」を、東京での「玉井敬友」の演劇活動のSMアドバイザーとして招き入れます。「長田英吉」は、「玉井敬友」に緊縛を含めたSM手法を教えるのみにとどまらず、「玉井敬友」の企画でSM劇、「オサダ・ゼミナール(おさだぜみなーる)」を六本木にあった「シアタースキャンダル」の稽古場にて開催するようになります。「シアタースキャンダル」の稽古場では、SM撮影会なども開催され、この模様は情報誌などを通じてセンセーショナルに報道されたために、SMに対する一般の感心がますます高まりました。この時期の「シアタースキャンダル」には、「桜田伝次郎(さくらだでんじろう)」や「名和徹(なわとおる)」などといった、後に活躍する人達も参加しており、SMショーの歴史の中で重要な位置をしめます。1970年代の終わり頃には、「玉井敬友」や「長田英吉」は、それぞれ独立にストリップの舞台に立ち、これもまた大きな人気を集めることになります。「桜田伝次郎」も自らの企画でSMイベントを開催するようになります。

 1970年代日本SM史にとって激動の時代です。この他にもいくつかの重要な動きがありましたので、それらを簡単に紹介しましょう。

濡木痴夢男が講師をしていた解語の花の1979年(昭和54年)5月13日の撮影会での枷井克哉の作品。モデルはミレーヌみゆき。

 創刊ラッシュの続くSM雑誌のグラビアに載せる緊縛を、この頃、ほぼ一人で担当していたのが、「濡木痴夢男」でした。「濡木痴夢男」は、1976年(昭和51年)11月に、写真家の「星野小麿(ほしのこまろ)」の主催する写真撮影会KPCの分科会の1つ、「解語の花(かいごのはな)」に緊縛講師として招かれます。この会は、「濡木痴夢男」が解説を加えながらモデルを縛り、それをアマチュアカメラマン達が撮影する、といったものでしたが、この会はやがて「濡木痴夢男」の「緊縛美研究会(きんばくびけんきゅうかい)」につながります。現在、全国各地で開かれている緊縛教室の原点ともいえる会なのです。

 SMクラブの歴史の中でも特記すべき出来事が1970年代に起こっています。1950年代、1960年代にもSMクラブ的なものは存在していましたが、夕刊紙などに細々と広告を出したり、クチコミで会員を集めたりなど、あまり表に出ない存在でした。エロスにオープンな1970年代に入ると、堂々とSMクラブと銘打って、比較的大規模に営業を始める店が出現します。1970年代の中頃には「本田富朗(ほんだとみろう)」による「中野クィーン(なかのくぃーん)」がオープンします。「中野クィーン」のスタジオでは、その後、多くのショーやビデオ撮影がされることになります。また、1979年(昭和54年)には、上述の「賀山茂」が六本木に高級SMサロン「SAMM(さむ)」をオープンします。「賀山茂」は既に実業家として財を成していましたので、「SAMM」には実業家や著名人などが集まり、新たなSMビジネスの創成の場としても機能していたようです。  またこの時期、清水市でSMクラブに通じる女王様サークル「美芸会」を主宰していた「松田富治男」と「立花玲子(たちばなれいこ)」が東京に「松田企画」として進出し、「中野クィーン」と共に、その後の女王様系SMクラブの先鞭をつけます。

1980年代(昭和55年〜平成元年)

THE SM」チラシ
赤坂ブルーシャトーでおこなわれていた長田英吉のショート思われる写真。葵マリーSMドキュメント葵マリーの告白手記』(あまとりあ社, 1983)より。
オレンジ・ピープル1980年(昭和55年)10月創刊号

 SM文化の進展は、メディアの進化と密接なつながりを持ちます。雑誌、舞台、映画に加えて、1980年代にさらにビデオがSM史に大きな影響を与えます。

 ビデオの技術そのものは1970年代初期に登場していましたが、家庭用のビデオデッキが普及する1970年代後半ぐらいから、エロビデオソフトの制作も活発化します。上述の「賀山茂」も1981年(昭和56年)に「サム・ビデオ・センター(さむびでおせんたー)」を設立し、SMビデオの制作に乗り出します。「賀山茂」は、その後、SMビデオ以外の作品にも事業を進め、現在のh.m.pにつながる「芳友舎(ほうゆうしゃ)」を1984年(昭和59年)に設立し、AV事業の分野でも成功を収めます。

 SM雑誌も、1970年代に引き続き勢いを保っていました。SM雑誌の出版に関わる人達の中からも、新興のAV分野に乗り移った人も少なくありません。「吉村彰一(よしむらしょういち)」はSM雑誌の出版社の社員でしたが、1983年(昭和58年)に「シネマジック(しねまじっく)」を設立し、SM作品を多く制作します。またSM雑誌のカメラマンをしていた「峰一也(みねかずや)」も1981年頃から「濡木痴夢男」の緊縛によるSM作品を通信販売しており、1983年(昭和58年)には、いわゆる「アートビデオ(あーとびでお)」を法人化しています。1970年代の終わりからSM雑誌の編集者をしていた「志摩紫光(しましこう)」も1986年(昭和61年)に「志摩ビデオ(しまびでお)」を設立しています。

 ビデオ作品が映画作品と大きく異なる点は、そのリアル感なのかもしれません。電磁媒体そのものがもつ硬質さに加え、長回し撮影可能なところなどが、独特のリアル感をあたえることになり、これがリアルさを求めていた当時の聴衆に強くアピールしたと思われます。ドキュメントタッチの代表的な監督に「代々木忠(よよぎただし)」がいます。『愛染恭子の本番生撮り 淫欲のうずき』(1981)、『ドキュメント・ザ・オナニー』(1981)等のビデオ作品で注目を集めますが、1983年(昭和58年)には「長田英吉」のSMを取り扱った『ザ・ドキュメント オーガズム』。1984年(昭和59年)には「根暗童子(ねくらどうじ)」のSM『インド式SMハウツゥテクニック』を発表し、これらの作品はキネコ作品としてフィルムに変換され、映画公開もされているのが特徴です。

 この頃にはタイトルに「ザ・○○」と入れたドキュメントタッチの作品が多く作られましたが、「代々木忠」がピンク映画監督時代に設立した「プリマ企画(ぷりまきかく)」出身の「中村幻児(なかむらげんじ)」も、自身の「雄プロ(ゆうぷろ)」から『THE SM(ざえすえむ)』(1984)、『ザ・折檻(ざせっかん)』(1985)などの「ザ・○○」シリーズのSM作品をビデオ、劇場映画で発表します。これらの作品のいくつかには、「志摩紫光」や「葵マリー(あおいまりー)」が調教師として出演しており、その激しい責めがマスコミを通じて大きく報道され、一般の人々の度肝を抜きました。

 「葵マリー」は既に、1980年(昭和55年)に「赤坂ブルーシャトー(あかさかぶるーしゃとー)」というSMクラブをオープンし、定期的に激しさが売りのSMショーを開催し、マスコミなどを通じて注目を集めていました。「赤坂ブルーシャトー」には「長田英吉」もしばしば出演していました。

リアルで激しいSMプレイが注目された時代です。「玉井敬友」、「長田英吉」「桜田伝次郎」のストリップ劇場でのSMショーも大人気を博していました。ストリップの演出家、「川上譲治(かわかみじょうじ)」も1980年代にはSMショーの企画を多く手がけ、「根暗童子」などが出演していました。

 「桜田伝次郎」は1970年代の後半から精力的にSMショーを開催していましたが、1985年(昭和60年)に突然SMショーから引退します。この時、それまでの「桜田伝次郎」が開催していたSMイベントを引き継いだのが「明智伝鬼(あけちでんき)」です。「明智伝鬼」は1978年(昭和53年)に、最初は観客として「桜田伝次郎」のSMショーに参加しますが、やがてショーの終了後に、観客に緊縛を披露するという形が定着したようです。「桜田伝次郎」からSMショーを受けついだ「明智伝鬼」は、複数のSM定例会を開催し、次第に注目を集めていきます。

 この時期、SM雑誌やSMビデオの撮影の緊縛で多忙を極めていた「濡木痴夢男」ですが、1985年(昭和60年)には「不二秋夫(ふじあきお)」と共に、「緊縛美研究会」を設立し、緊縛技法の解説に力を入れていくことになります。

 SMビデオと共にSM雑誌も引き続き人気を集めます。また「スワッピング雑誌(すわっぴんぐざっし)」がいくつも出版され、手紙を通じてSM愛好者がお互いに繫がりをもつ機会が増えてきます。同時に、「テレクラ(てれくら)」「ダイヤルQ2(だいやるQ2)」などといった、電話を利用した出会いの機会も増加し、SM専用の「テレクラ」や「ダイヤルQ2」も登場します。

 人前で裸にして、首輪をつけて、縛って、鞭でたたいて、ローソクを垂らして、バイブで責める、といったステレオタイプ的なSMのイメージがビデオや映画を通じて、広く一般の人まで知れわたったのが1980年代のSM文化です。1980年代の後半には、インターネットの前身である、パソコン通信が始まりますが、まだまだパソコンそのものが今のように一般的ではありませんでしたが、まだSMメディアとしての力は限定的なものでした。

 SMの知名度がどんどん広がり、積極的にSMプレイに参加する機会が増えてくる1980年代です。

1990年代(平成2年〜平成11年)

高須基仁製作による明智伝鬼をフューチャーした縛りの極意』 (クリーンバーニー・モッツ・コーポレーション, 1997)

 1980年代、SMの緊縛ジャンルに絞っていえば、「濡木痴夢男」が圧倒的な存在感をもっていました。しかしながら1990年代に入る頃から、ここに「明智伝鬼」が加わってきます。「濡木痴夢男」がSM雑誌やSMビデオでの緊縛をメインに活動していたのに対し、「明智伝鬼」はSMショーでのパフォーマンスを基盤としていました。自らもSM愛好家であるプロデューサーの「高須基仁(たかすもとじ)」が特に「明智伝鬼」の緊縛を好み、活発に「明智伝鬼」の関係したSMイベントや出版を企画します。これらの背景のもと、SMの中でも、特に「緊縛」が世間から注目されるようになり、「緊縛師」「縛師」といった言葉が一般に広まることになります。SM雑誌の撮影や、SMビデオの制作で、それまではどちらかというと裏方的存在であった緊縛の担当者が、SMの中心人物としてスポットライトがあてられるようになります。

 1990年代中頃には新宿にライブハウスである「ロフトプラスワン(ろふとぷらすわん)」がオープンし、一般的なイベントと共に、「長田英吉」、「明智伝鬼」「雪村春樹(ゆきむらはるき)」「有末剛(ありすえごう)」「千葉曳三(ちばえいぞう)」「ダーティ工藤(だーてぃくどう)」などといった人々のショーが公演され、一般の人が、気軽にSMを目にする機会が増えました。    1990年代に人気を集めたSM雑誌の「S&Mスナイパー」では、それまでの「濡木痴夢男」「杉浦則夫」コンビによる独特のテイストの緊縛写真とは異なる、「荒木経惟(あらきのぶよし)」や「田中欣一(たなかきんいち)」の写真が取り上げられました。特に、海外での展覧会も多い「荒木経惟」の緊縛写真は、後に日本SMの素晴らしさを海外に広める役割を果たします。

 1990年の後半にはインターネットが急速に一般社会に入り込んで来ます。「スワッピング雑誌」や「ダイヤルQ2」が担っていた、同好者のネットワーク形成は、急速にインターネットがその役割を果たすようになります。1990年代の終わり頃には、海外向けの日本SMサイトも開設され、日本のSM文化が、インターネットを通じて世界に広まることとなります。

 この時期、1995年(平成7年)には、「長池士(ながいけたけし)」が米国を訪問し、日本の緊縛を紹介する写真集とビデオを製作し販売します。また、「明智伝鬼」も1999年(平成11年)に欧州ツアーをおこない、日本の緊縛を紹介しています。

 この時期、風俗店としてのSMクラブの数も飛躍的に増大します。それまでの、SM雑誌やSMビデオで観賞するだけのSMから、体験するSMへと愛好家の意識が変化していきます。全盛期には東京の五反田だけでも50軒以上のSM関係の風俗店があったようです。

 1990年代は、戦後から進展してきたSM文化の円熟期ともいえる10年間です。

2000年代(平成13年〜平成21年)

 1990年代後半から急速に広まるインターネットは、産業構造そのものを大きく変化させてしまいます。インターネットの普及で、まず大きなダメージを負うのが「紙文化」すなわち、書籍や新聞です。SM雑誌も例外ではなく、栄華を誇ったSM雑誌がどんどんと休刊に追い込まれて行きます。次にダメージを受けたのが、映像文化です。ビデオは、この時期DVDにとって置きかわりますが、、動画産業そのものがかつてのような勢いを失ってしまいます。現在のわれわれの普段のインターネットを生活を見ればわかるように、簡単に、無料、あるいはやすい料金で欲しいコンテンツが手に入る時代に突入しました。

 2000年に入り、SMはますます身近なものとなってきます。インターネットにより、SMに興味をもつ人々がどんどんと増えていきました。また、いくつもの緊縛教材が書籍やDVDで出版され、プロでない人々も気軽にSMを楽しむようになりました。それにあわせて、「ハプニングバー*(はぷにんぐばー)」やSMサークルなどでの技術交流も盛んになっていきます。SM雑誌やSMビデオを観て楽しむSMから、自らが参加して楽しむSMの世界が広がっていきます。

 2009年(平成21年)には、ロンドンで「ロンドン緊縛美の祭典*(ろんどんきんばくびのさいてん)」が開催されます。ここには、日本からの参加者はいないのですが、インターネットや雑誌などを通じて日本のSMに興味をもった海外の愛好者が開催した日本のSM祭典です。21世紀に入り、日本のSM文化は大きく世界にはばたいていきます。

 2005年(平成17年)11月の「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律」改正でプレイルーム付きのSMクラブが消滅することになり、SMクラブは大きな影響を受けます。

2010年代(平成22年〜)

 現在、われわれが想像する以上に、世界では日本のSM、特に緊縛が注目されています。米国、英国、イタリア、ロシア、カナダ、オーストラリア、スペインなど多くの国で、日本式の緊縛が熱心に勉強されています。海外からは、緊縛を学ぶために来日する人の数はどんどん増えており、また、2010年代に入ると、国内のプロの緊縛師が、海外から公演や講習会のために招聘される機会が増えています。  また、20代、30代の若手の緊縛師が次々と登場したのも2010年代の特徴です。この背景には、多くの先達の努力により、安全で安定した緊縛技術が完成されたことがひとつにあります。  一方で、SMの中でも、特に緊縛という1つのジャンルのみに焦点があたってしまっているのも、2010年代のSMの特徴です。1980年代の「人前で裸にして、首輪をつけて、縛って、鞭でたたいて、ローソクを垂らして、バイブで責める」に比べると、見た目は穏やかになってしまったのが現在のSMの特徴です。

引用文献

注釈

お役たちweb

つながり

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