「若松孝二と「花と蛇」」の版間の差分

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撮影場所の「[[熱海城]]」に関しても腑に落ちなかった。[[山邊信夫]]氏のお父さんの秘書だった方が支配人をやっていたので、その縁で借りることができた「立派な宿泊施設」、というなのだが、「[[熱海城]]」は観光施設で旅館ではない。これもきっと、[[団鬼六]]がお気に入りだった熱海『起雲閣』と間違えているのだろうと確認するも、「[[熱海城]]」だときっぱり。
撮影場所の「[[熱海城]]」に関しても腑に落ちなかった。[[山邊信夫]]氏のお父さんの秘書だった方が支配人をやっていたので、その縁で借りることができた「立派な宿泊施設」、というなのだが、「[[熱海城]]」は観光施設で旅館ではない。これもきっと、[[団鬼六]]がお気に入りだった熱海『起雲閣』と間違えているのだろうと確認するも、「[[熱海城]]」だときっぱり。


「主役の静子は、火石プロに所属する紫千鶴(21歳)で、制作者のY氏と私がかけずり回って見つけ出した
そうすると、ひょっとすると昔は宿泊施設があったのかもしれないと、熱海市立図書館に出向いて、学芸員の方にうかがうと、「何に使われるのですか?」と疑いの目をむけられながらも、どっさりと資料を見せていただけました。実は、熱海市と[[熱海城]]の間ではいろいろとバトルがあったようなのですが、それは横においておき、確かに1959年(昭和34年)10月にオープンした[[熱海城]]は、1960年代には大浴場や宿泊施設を有するレジャーランドとして人気を博していたことが明らかに。[[山邊信夫]]氏の記憶と矛盾しません。
 
次に、監督の[[小林悟]]。これも監督が[[小林悟]]だとすると話がスムーズになる記録が2つある。1つが『[[鬼六談義]] 映画「[[花と蛇]]」』の[[団鬼六]]の記述。「監督されたK氏は、監督歴十何年のベテランであり、映画作りにはそつがない」である。過去のブログでは「K氏とは、岸信太郎こと、山邊氏である。「監督歴十何年のベテラン」はウソである。ド素人である。」と書いてしまったが、[[小林悟]]がK氏であれば「監督歴十何年のベテラン」で話はあう。
 
さらに、やはり過去のブログの「[[映画における緊縛指導 〜番外編2〜 たこ八郎]]」で、[[たこ八郎]]が「ピンク映画に最初に出たのは[[小林悟]]の『花となんとか』って映画。東映で『花と龍』ってのをやってね、それで小林さん『花となんとか』ってのを撮ったの。」と自伝で書いていることに対し、「小林悟の映画にたこ八郎が出演した記録は見つからないし、小林悟の『花となんとか』に相当する作品も思い当たらない。「最初のピンク映画の監督とされる小林悟」と「団鬼六の『花と蛇』」が錯綜して間違った記憶になっているのではと思われる。」と書いたが、[[山邊信夫]]氏は、[[1965年版「花と蛇」]]に[[たこ八郎]]が出たと明言していることを考えると、「ピンク映画に最初に出たのは[[小林悟]]の『花となんとか』」は、まさにこの[[1965年版「花と蛇」]]にほかならない。
 
 
 


たこ八郎自身は自伝で、「ピンク映画に最初に出たのは小林悟の『花となんとか』って映画。」と述べている。ただ、小林悟の映画にたこ八郎が出演した記録は見つからないし、小林悟の『花となんとか』に相当する作品も思い当たらない。「最初のピンク映画の監督とされる小林悟」と「団鬼六の『花と蛇』」が錯綜して間違った記憶になっているのではと思われる。
たこ八郎自身は自伝で、「ピンク映画に最初に出たのは小林悟の『花となんとか』って映画。」と述べている。ただ、小林悟の映画にたこ八郎が出演した記録は見つからないし、小林悟の『花となんとか』に相当する作品も思い当たらない。「最初のピンク映画の監督とされる小林悟」と「団鬼六の『花と蛇』」が錯綜して間違った記憶になっているのではと思われる。

2012年10月18日 (木) 13:45時点における版

この記事は2012年(平成24年)10月18日に「Ardent Obsession III」に投稿されたブログ記事を転載したものです。

若松孝二と「花と蛇」

若松孝二監督が交通事故で亡くなった。1936年(昭和11年)4月1日生まれとされているので、76才である。今年だけでも、5月のカンヌ国際映画祭に新作『11.25 自決の日 三島由紀夫と若者たち』が招待上映、9月のベネチア国際映画祭に新作「千年の愉楽」が招待上映、10月には釜山国際映画祭にて「今年のアジア映画人賞」受賞と精力的に活動されていただけに、惜しまれる突然の死である。

若松孝二監督のデビュー作とされているのが1963年(昭和38年)の『甘い罠』。制作は東京企画で主演女優は香取環である。年代的にも、制作の東京企画も、個人的には興味深い存在である。

1960年代の前半といえば、いわゆる「ピンク映画」が勃興した時代。最初のピンク映画とされる小林悟監督『肉体の市場』が公開されたのが1962年(昭和37年)3月。続く11月には本木荘二郎が『肉体自由貿易』(国新映画)を制作しており、この作品をピンク映画第1号とする説もあるらしい。いずれにせよこの時代の作品、「ピンク映画」といっても(「ピンク映画」という言葉そのものは1963年(昭和38年)に内外タイムスの記事で使われた「おピンク映画」が起源とされている)、その後のピンク映画がそうであるような、過激なセックスシーンはほとんどなく、今のわれわれが観ると普通の性表現作品である。位置づけとしては、1960年代初めに、大手映画会社ではなく、群小プロダクションが低予算で映画作品を作り始め、観客の注目を集めるために大手映画会社が躊躇する性や暴力表現を取り入れた映画作品、ということになる。

若松孝二監督が映画に関わり出したのは、映画ロケの弁当運び屋からだとされている[1]。テレビの『鉄人28号』『矢車剣之助』『月光仮面』などの助手もつとめていたようだ[1]。『月光仮面』といえば『宣弘社』が1957年(昭和32年)に企画したテレビの大ヒット作品。西村俊一がプロデューサーである。おそらく若松孝二は、1950年代の後半にはTV作品の撮影現場に出入りしていたものと思われる。もちろんこの時代、大手映画会社から流れたスタッフがTV番組の作品を制作していた。

西村俊一の『宣弘社』には、面白いことに、後のヤマベプロ山邊信雄が音響として参加していた。1958年(昭和33年)頃のことである。こ山邊信雄も山本薩夫、今井正らの映画製作の関わりから流れて、TV作品の制作へとシフトしている。

やがて山邊信雄は、1963年(昭和37年)頃にテレビ放送社に入社し、『どら猫大将』『恐妻天国』『ガンビーくんの冒険』のプロデュースで興行的に大成功を収める。約2年後にテレビ放送社に入社してきたのが団鬼六である。団鬼六の自伝には、この頃のことが脚色まじりに面白おかしく書かれているが、現実は売れっ子プロデューサーと入社まもない翻訳家の関係である。団鬼六は、三浦市三崎の英語教師を勤めながら、『花と蛇』を奇譚クラブに寄稿し、その第一部が完結した頃に相当する。

テレビ放送社でプロデューサーをしていた山邊信雄であるが、当時勃興してきた「ピンク映画」に可能性を見いだす。テレビ放送社を籍をおきつつ映画製作に乗り出し、その第一作が1965年版「花と蛇」である。既に再開した奇譚クラブでの『花と蛇』は確実に愛読者を増やしており、1965年版「花と蛇」の鑑賞感想もいくつか奇譚クラブに紹介されている。

さて、この1965年版「花と蛇」若松孝二と関わってくる。

1965年版「花と蛇」については、2009年(平成21年)10月10日に「Obsession II 」に映画における緊縛指導 〜その3〜 団鬼六として一度記事を書いたことがある。その記事では、この1965年版「花と蛇」は、製作が東京企画、監督が山邊信夫の変名「岸信太郎」で、主演は紫千鶴と紹介した。これらの情報は日本映画データベースに依ったものだった。

また、その記事では、団鬼六奇譚クラブ1965年(昭和40年)8月号『鬼六談義 映画「花と蛇」』を引用し、「『撮影に二、三日立ち会ってみたが・・・監督されたK氏は、監督歴十何年のベテランであり、映画作りにはそつがない』・・・K氏とは、岸信太郎こと、山邊氏である。「監督歴十何年のベテラン」はウソである。ド素人である。」と書いた。

ところがである・・・

この記事を書いた後に、山邊信夫氏に何回かお話しをうかがう機会を得た。山邊信夫氏のこの1965年版「花と蛇」に関する記憶は鮮明で、それによると

だということであった。

これは大変なことである。日本映画データベースの情報とは大きく異なるのである。

かなり昔の事であるので、山邊信夫氏の記憶違いであるのではと、ひつこく質問したのだが、山邊信夫氏の記憶にはあいまいさはなかった。ただし、主演のタカオユリに関しては、「最終的に『紫千鶴』という名前で出たのかなぁ」ということである。また、製作が東京企画となっているのは、配給を東京企画がおこなったから、そうなっているのだろうということた。

「紫千鶴」という名前に関しては、上述の『鬼六談義 映画「花と蛇」』でも「紫千鶴は火石プロに所属する21才」と出てくるので、表向きには「紫千鶴」という名前が使われていたのは確かなのであろう。タカオユリという名前で撮影に参加していたのかもしれない。日本女優辞典では、「紫千鶴は1932年(昭和7年)6月25日生まれ、マキノ映画などに出演後、1956年(昭和31年)に「紫千代」に改名、1959年(昭和34年)頃には映画界から姿を消した」とされている。もしこのマキノ映画に出ていた紫千鶴が同一人物だとすると、1965年には33才になっている筈なので、「紫千鶴は火石プロに所属する21才」とは随分と違ってくる。1965年版「花と蛇」の主演女優の実体は不明のままだが、山邊信夫氏によると「静子役にぴったりいい女優だったが、すぐやめた」ということだ。

撮影場所の「熱海城」に関しても腑に落ちなかった。山邊信夫氏のお父さんの秘書だった方が支配人をやっていたので、その縁で借りることができた「立派な宿泊施設」、というなのだが、「熱海城」は観光施設で旅館ではない。これもきっと、団鬼六がお気に入りだった熱海『起雲閣』と間違えているのだろうと確認するも、「熱海城」だときっぱり。

そうすると、ひょっとすると昔は宿泊施設があったのかもしれないと、熱海市立図書館に出向いて、学芸員の方にうかがうと、「何に使われるのですか?」と疑いの目をむけられながらも、どっさりと資料を見せていただけました。実は、熱海市と熱海城の間ではいろいろとバトルがあったようなのですが、それは横においておき、確かに1959年(昭和34年)10月にオープンした熱海城は、1960年代には大浴場や宿泊施設を有するレジャーランドとして人気を博していたことが明らかに。山邊信夫氏の記憶と矛盾しません。

次に、監督の小林悟。これも監督が小林悟だとすると話がスムーズになる記録が2つある。1つが『鬼六談義 映画「花と蛇」』の団鬼六の記述。「監督されたK氏は、監督歴十何年のベテランであり、映画作りにはそつがない」である。過去のブログでは「K氏とは、岸信太郎こと、山邊氏である。「監督歴十何年のベテラン」はウソである。ド素人である。」と書いてしまったが、小林悟がK氏であれば「監督歴十何年のベテラン」で話はあう。

さらに、やはり過去のブログの「映画における緊縛指導 〜番外編2〜 たこ八郎」で、たこ八郎が「ピンク映画に最初に出たのは小林悟の『花となんとか』って映画。東映で『花と龍』ってのをやってね、それで小林さん『花となんとか』ってのを撮ったの。」と自伝で書いていることに対し、「小林悟の映画にたこ八郎が出演した記録は見つからないし、小林悟の『花となんとか』に相当する作品も思い当たらない。「最初のピンク映画の監督とされる小林悟」と「団鬼六の『花と蛇』」が錯綜して間違った記憶になっているのではと思われる。」と書いたが、山邊信夫氏は、1965年版「花と蛇」たこ八郎が出たと明言していることを考えると、「ピンク映画に最初に出たのは小林悟の『花となんとか』」は、まさにこの1965年版「花と蛇」にほかならない。



たこ八郎自身は自伝で、「ピンク映画に最初に出たのは小林悟の『花となんとか』って映画。」と述べている。ただ、小林悟の映画にたこ八郎が出演した記録は見つからないし、小林悟の『花となんとか』に相当する作品も思い当たらない。「最初のピンク映画の監督とされる小林悟」と「団鬼六の『花と蛇』」が錯綜して間違った記憶になっているのではと思われる。

関連した出来事

1931年(昭和6年)4月16日、団鬼六が滋賀県に生まれる。

1933年(昭和8年)、山邊信雄が浅草に生まれる。

1936年(昭和11年)4月1日、若松孝二が宮城県遠田郡涌谷町に生まれる。

1956年(昭和31年)、団鬼六が文藝春秋「オール讀物」主催のオール新人杯に黒岩松次郎の名前で応募した応募した『浪速に死す』が佳作。

1958年(昭和33年)頃、山邊信雄が「宣弘社」に入社。

1960年(昭和35年)4月、団鬼六の『大穴』 が松竹から映画化。

1960年前後、若松孝二がロケの弁当運びから始め、テレビの「鉄人28号」「矢車剣之助」「月光仮面」などの助手。

1962年(昭和37年)、団鬼六花と蛇』1〜3回を花巻京太郎の名で奇譚クラブ8月9月合併号から連載。団鬼六は新橋でのバー経営に失敗。東京から三浦市三崎に移転。

1963年(昭和37年)頃、山邊信雄がテレビ放送社に入社。

1963年(昭和38年)9月、若松孝二が『甘い罠』(東京企画、睦五郎、香取環)で監督デビュー。

1964年(昭和39年)、『花と蛇』第一部が完結(第15回)。

1965年(昭和40年)春、団鬼六がテレビ放送社に入社。

1965年(昭和40年)、若松孝二が若松プロダクションを設立設立。『壁の中の秘事』がベルリン国際映画祭に出品。

1965年(昭和40年)、1965年版「花と蛇」の完成。

参考資料

つながり

<metakeywords>緊縛, 映画, 昭和</metakeywords>