「若松孝二と「花と蛇」」の版間の差分

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西村俊一の『宣弘社』には、面白いことに、後の[[ヤマベプロ]]の[[山邊信雄]]が音響として参加していた。1958年(昭和33年)頃のことである。こ[[山邊信雄]]も山本薩夫、今井正らの映画製作の関わりから流れて、TV作品の制作へとシフトしている。
西村俊一の『宣弘社』には、面白いことに、後の[[ヤマベプロ]]の[[山邊信雄]]が音響として参加していた。1958年(昭和33年)頃のことである。こ[[山邊信雄]]も山本薩夫、今井正らの映画製作の関わりから流れて、TV作品の制作へとシフトしている。


やがて[[山邊信雄]]は、1963年(昭和37年)頃に'''テレビ放送社'''に入社し、『どら猫大将』『恐妻天国』『ガンビーくんの冒険』のプロデュースで興行的に大成功を収める。その頃に'''テレビ放送社'''に入社してきたのが[[団鬼六]]である。[[団鬼六]]の自伝には、この頃のことが脚色まじりに面白おかしく書かれているが、当時の関係は売れっ子プロデューサーと若い新米翻訳家である。[[団鬼六]]は、三浦市三崎の英語教師を辞し、単身再上京して、ペンネームを[[花巻京太郎]]から[[団鬼六]]に変えて、中断していた『[[花と蛇]]』を1963年(昭和38年)7月号の[[奇譚クラブ]]に再開する頃にあたる。
やがて[[山邊信雄]]は、1963年(昭和37年)頃に'''テレビ放送社'''に入社し、『どら猫大将』『恐妻天国』『ガンビーくんの冒険』のプロデュースで興行的に大成功を収める。約2年後に'''テレビ放送社'''に入社してきたのが[[団鬼六]]である。[[団鬼六]]の自伝には、この頃のことが脚色まじりに面白おかしく書かれているが、現実は売れっ子プロデューサーと入社まもない翻訳家の関係である。[[団鬼六]]は、三浦市三崎の英語教師を勤めながら、『[[花と蛇]]』を[[奇譚クラブ]]に寄稿し、その第一部が完結した頃に相当する。


'''テレビ放送社'''でプロデューサーをしていた[[山邊信雄]]であるが、当時勃興してきた「[[ピンク映画]]」に可能性を見いだす。'''テレビ放送社'''を籍をおきつつ映画製作に乗り出し、その第一作が[[1965年版「花と蛇」]]である。既に再開した[[奇譚クラブ]]での『[[花と蛇]]』は確実に愛読者を増やしており、[[1965年版「花と蛇」]]の鑑賞感想もいくつか[[奇譚クラブ]]に紹介されている。
'''テレビ放送社'''でプロデューサーをしていた[[山邊信雄]]であるが、当時勃興してきた「[[ピンク映画]]」に可能性を見いだす。'''テレビ放送社'''を籍をおきつつ映画製作に乗り出し、その第一作が[[1965年版「花と蛇」]]である。既に再開した[[奇譚クラブ]]での『[[花と蛇]]』は確実に愛読者を増やしており、[[1965年版「花と蛇」]]の鑑賞感想もいくつか[[奇譚クラブ]]に紹介されている。
==関連した出来事==
==関連した出来事==
1931年(昭和6年)4月16日、[[団鬼六]]が滋賀県に生まれる。
1931年(昭和6年)4月16日、[[団鬼六]]が滋賀県に生まれる。

2012年10月18日 (木) 10:10時点における版

この記事は2012年(平成24年)10月18日に「Ardent Obsession III」に投稿されたブログ記事を転載したものです。

若松孝二と「花と蛇」

若松孝二監督が交通事故で亡くなった。1936年(昭和11年)4月1日生まれとされているので、76才である。今年だけでも、5月のカンヌ国際映画祭に新作『11.25 自決の日 三島由紀夫と若者たち』が招待上映、9月のベネチア国際映画祭に新作「千年の愉楽」が招待上映、10月には釜山国際映画祭にて「今年のアジア映画人賞」受賞と精力的に活動されていただけに、惜しまれる突然の死である。

若松孝二監督のデビュー作とされているのが1963年(昭和38年)の『甘い罠』。制作は東京企画で主演女優は香取環である。年代的にも、制作の東京企画も、個人的には興味深い存在である。

1960年代の前半といえば、いわゆる「ピンク映画」が勃興した時代。最初のピンク映画とされる小林悟監督『肉体の市場』が公開されたのが1962年(昭和37年)3月。続く11月には本木荘二郎が『肉体自由貿易』(国新映画)を制作しており、この作品をピンク映画第1号とする説もあるらしい。いずれにせよこの時代の作品、「ピンク映画」といっても(「ピンク映画」という言葉そのものは1963年(昭和38年)に内外タイムスの記事で使われた「おピンク映画」が起源とされている)、その後のピンク映画がそうであるような、過激なセックスシーンはほとんどなく、今のわれわれが観ると普通の性表現作品である。位置づけとしては、1960年代初めに、大手映画会社ではなく、群小プロダクションが低予算で映画作品を作り始め、観客の注目を集めるために大手映画会社が躊躇する性や暴力表現を取り入れた映画作品、ということになる。

若松孝二監督が映画に関わり出したのは、映画ロケの弁当運び屋からだとされている[1]。テレビの『鉄人28号』『矢車剣之助』『月光仮面』などの助手もつとめていたようだ[1]。『月光仮面』といえば『宣弘社』が1957年(昭和32年)に企画したテレビの大ヒット作品。西村俊一がプロデューサーである。おそらく若松孝二は、1950年代の後半にはTV作品の撮影現場に出入りしていたものと思われる。もちろんこの時代、大手映画会社から流れたスタッフがTV番組の作品を制作していた。

西村俊一の『宣弘社』には、面白いことに、後のヤマベプロ山邊信雄が音響として参加していた。1958年(昭和33年)頃のことである。こ山邊信雄も山本薩夫、今井正らの映画製作の関わりから流れて、TV作品の制作へとシフトしている。

やがて山邊信雄は、1963年(昭和37年)頃にテレビ放送社に入社し、『どら猫大将』『恐妻天国』『ガンビーくんの冒険』のプロデュースで興行的に大成功を収める。約2年後にテレビ放送社に入社してきたのが団鬼六である。団鬼六の自伝には、この頃のことが脚色まじりに面白おかしく書かれているが、現実は売れっ子プロデューサーと入社まもない翻訳家の関係である。団鬼六は、三浦市三崎の英語教師を勤めながら、『花と蛇』を奇譚クラブに寄稿し、その第一部が完結した頃に相当する。

テレビ放送社でプロデューサーをしていた山邊信雄であるが、当時勃興してきた「ピンク映画」に可能性を見いだす。テレビ放送社を籍をおきつつ映画製作に乗り出し、その第一作が1965年版「花と蛇」である。既に再開した奇譚クラブでの『花と蛇』は確実に愛読者を増やしており、1965年版「花と蛇」の鑑賞感想もいくつか奇譚クラブに紹介されている。

関連した出来事

1931年(昭和6年)4月16日、団鬼六が滋賀県に生まれる。

1933年(昭和8年)、山邊信雄が浅草に生まれる。

1936年(昭和11年)4月1日、若松孝二が宮城県遠田郡涌谷町に生まれる。

1956年(昭和31年)、団鬼六が文藝春秋「オール讀物」主催のオール新人杯に黒岩松次郎の名前で応募した応募した『浪速に死す』が佳作。

1958年(昭和33年)頃、山邊信雄が「宣弘社」に入社。

1960年(昭和35年)4月、団鬼六の『大穴』 が松竹から映画化。

1960年前後、若松孝二がロケの弁当運びから始め、テレビの「鉄人28号」「矢車剣之助」「月光仮面」などの助手。

1962年(昭和37年)、団鬼六花と蛇』1〜3回を花巻京太郎の名で奇譚クラブ8月9月合併号から連載。団鬼六は新橋でのバー経営に失敗。東京から三浦市三崎に移転。

1963年(昭和37年)頃、山邊信雄がテレビ放送社に入社。

1963年(昭和38年)9月、若松孝二が『甘い罠』(東京企画、睦五郎、香取環)で監督デビュー。

1964年(昭和39年)、『花と蛇』第一部が完結(第15回)。

1965年(昭和40年)春、団鬼六がテレビ放送社に入社。

1965年(昭和40年)、若松孝二が若松プロダクションを設立設立。『壁の中の秘事』がベルリン国際映画祭に出品。

1965年(昭和40年)、1965年版「花と蛇」の完成。

参考資料

つながり

<metakeywords>緊縛, 映画, 昭和</metakeywords>