「花沢正治」の版間の差分

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==概要==
==概要==
映画のスチールカメラマンとして名を成した後、ヌードカメラマンとしても成功。目黒に花沢スタジオをもち、[[SMセレクト]]などの緊縛写真の撮影を多く撮影した。心筋梗塞で倒れた後は、チベットに関連した写真作品を発表<ref name="kosakai">小堺昭三『カメラマンたちの昭和史(8)』(グーテンベルク21)</ref>。
映画のスチールカメラマンとして名を成した後、ヌードカメラマンとしても成功。目黒に花沢スタジオをもち、[[SMセレクト]]などの緊縛写真の撮影を多く撮影した。心筋梗塞で倒れた後は、チベット仏教に傾倒し、関連した写真作品を発表<ref name="kosakai">小堺昭三『カメラマンたちの昭和史(8)』(グーテンベルク21)</ref>。


==別名==
==別名==

2012年2月9日 (木) 21:00時点における版

はなさわ しょうじ、1927年(昭和2年)3月3日-

概要

映画のスチールカメラマンとして名を成した後、ヌードカメラマンとしても成功。目黒に花沢スタジオをもち、SMセレクトなどの緊縛写真の撮影を多く撮影した。心筋梗塞で倒れた後は、チベット仏教に傾倒し、関連した写真作品を発表[1]

別名

english

略歴

1927年(昭和2年)3月3日、牧場経営主の四男として千葉県山武郡松尾町に生まれる[1]

1944年(昭和19年)、疎開で両国から来た写真機材店経営者と印画紙やフィルムを野菜と交換する[1]

1945年(昭和20年)、日本大学芸術家写真科に入学するが、すぐに学徒動員で福島県の八州光学に送られ、レンズ磨き。終戦で日大に戻る[1]

1948年(昭和23年)、新東宝映画製作所の秦大三[注 1]と出会い新東宝映画製作所の社員となる[1]

『びっくり五人男』のスチールが初仕事[1]

1950年(昭和25年)、契約スチールマンとして独立[1]

1974年(昭和49年)2月、心筋梗塞で倒れる。

エピソード

  • 目黒に「花沢スタジオ」

代表作

  • 『亡霊怪猫屋敷』(1958,)のスチール。
  • 花沢正治『秘境・チベット―花沢正治写真集』(1982.2, 日本写真企画)
  • 花沢正治『忿怒と歓喜―秘境・ラダックー密教の原像 花沢正治写真集』(1983.3, 平凡社)
  • 花沢正治『シャシン・マンダラ―秘境ブータン王国・シッキム・ダージリン密教の世界 花沢正治写真集』(1984.6, 平凡社)

引用文献

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 小堺昭三『カメラマンたちの昭和史(8)』(グーテンベルク21)

注釈

  1. 秦豊吉の実弟で写真家。

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