「山岸康二」の版間の差分

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1954年(昭和28年)、九州に移り住む。たまたま駅前書店で手にした『[[奇譚クラブ]]』に心引かれ、佐次浩介の名で投稿した「女性腋窩譚」が採択される。九州から『[[実話雑誌]]』にも投稿。
1954年(昭和28年)、九州に移り住む。たまたま駅前書店で手にした『[[奇譚クラブ]]』に心引かれ、佐次浩介の名で投稿した「女性腋窩譚」が採択される。九州から『[[実話雑誌]]』にも投稿。


1955年(昭和29年)??、再び上京。[[実話雑誌]]の出版社である[[三世社]](その後、三世新社となり、現在は東京三世社)を訪れ、定期的に記事の執筆。当時の編集長は、[[宮坂信]]であった。他にも、[[季節風書店]][[新樹書房]]の雑誌に執筆。
1955年(昭和29年)??、再び上京。[[実話雑誌]]の出版社である[[三世社]](その後、三世新社となり、現在は東京三世社)を訪れ、定期的に記事の執筆。当時の編集長は、[[宮坂信]]であった。他にも、[[季節風書店]]の「100万人の夜」や[[新樹書房]]の雑誌に執筆。


1957年(昭和32年) 放送作家としての仕事が増える。ラジオ東京の『ジェットストリーム』の台本。文化放送の『人形の森』、にっぽん放送『轟先生』、東京12チャンネルで『水道完備ガス見込』など。
1957年(昭和32年) 放送作家としての仕事が増える。ラジオ東京の『ジェットストリーム』の台本。文化放送の『人形の森』、にっぽん放送『轟先生』、東京12チャンネルで『水道完備ガス見込』など。
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1972年(昭和47年) 四谷にクラブ『ローレンス』をオープン。オープンのゲストは戸川晶子。裏でプレジデント・クラブと称する特別会員制のセックス専用施設を建設することを計画。しかし入会者が3人だけで結局破産。
1972年(昭和47年) 四谷にクラブ『ローレンス』をオープン。オープンのゲストは戸川晶子。裏でプレジデント・クラブと称する特別会員制のセックス専用施設を建設することを計画。しかし入会者が3人だけで結局破産。


1977年(昭和52年)4月 ローレンスの秘密クラブにいた綾小路貴子が「湯川いづみ」と改名し、テレホンセックス『湯川いづみ』グループをスタート。大当たりする。
1977年(昭和52年)4月 ローレンスの秘密クラブにいた綾小路貴子が「湯川いづみ」と改名し、テレホンセックス『湯川いづみ』グループをスタート。大当たりする。1979年(昭和54年)頃をピークに一時下火になるが、ダイヤルQ2の開始と共に再びブームとなり、売上げは半年で2億円に達した。その後は後発のテレクラに食われてしまう。





2009年11月8日 (日) 17:30時点における版

やまぎし こうじ、1931年(昭和6年)?月?日 -

活動内容

小説家。放送作家。事業家。

別名

Koji Yamagishi, 佐次浩介、青山敏樹、青山機関、門田奈子、生田悠悟

略歴

1931年(昭和6年)、静岡県に生まれる。

1949年(昭和24年)、上京して日大の芸術学部に入学。アルバイトで山の手新聞社というローカル新聞社の記者をやりながら、片手間に闇市の屋台を手伝う。

1953年(昭和27年)、放送作家西川清之氏に師事し、ラジオ東京(現TBS)に脚本を書く。

1954年(昭和28年)、九州に移り住む。たまたま駅前書店で手にした『奇譚クラブ』に心引かれ、佐次浩介の名で投稿した「女性腋窩譚」が採択される。九州から『実話雑誌』にも投稿。

1955年(昭和29年)??、再び上京。実話雑誌の出版社である三世社(その後、三世新社となり、現在は東京三世社)を訪れ、定期的に記事の執筆。当時の編集長は、宮坂信であった。他にも、季節風書店の「100万人の夜」や新樹書房の雑誌に執筆。

1957年(昭和32年) 放送作家としての仕事が増える。ラジオ東京の『ジェットストリーム』の台本。文化放送の『人形の森』、にっぽん放送『轟先生』、東京12チャンネルで『水道完備ガス見込』など。

19??年頃、浅草の大衆演劇常盤座のために書いた『嫁ぐ日の姉』がヒット。立川談志一座の『ご存知高田馬場・赤鞘三人安兵衛』の台本も。

1967年(昭和42年) 執筆行を断念し、スターのブロマイド販売する『サイン友の会』を発足させ大当たり。

1972年(昭和47年) 四谷にクラブ『ローレンス』をオープン。オープンのゲストは戸川晶子。裏でプレジデント・クラブと称する特別会員制のセックス専用施設を建設することを計画。しかし入会者が3人だけで結局破産。

1977年(昭和52年)4月 ローレンスの秘密クラブにいた綾小路貴子が「湯川いづみ」と改名し、テレホンセックス『湯川いづみ』グループをスタート。大当たりする。1979年(昭和54年)頃をピークに一時下火になるが、ダイヤルQ2の開始と共に再びブームとなり、売上げは半年で2億円に達した。その後は後発のテレクラに食われてしまう。


エピソード

  •  SMという名称が生まれていない1953年に、いち早く「MS」という記号を用いた。これは『芸苑社』という秘密クラブの広告を毎夕新聞の2行広告に出すときに考えついている。「『アブノーマル』や『マゾ・サド』では長すぎるし『変態』は露骨すぎて使えない。どうしたら良いか考えた揚げ句、頭文字を取ってMSとすることにした。『MS倶楽部会員モデル募集 芸 苑 社』こうして、わずか2行の広告が毎夕新聞に掲載されることになった。」である。
  •  「実際に載ってみると、MSでは何となく文字のすわりが悪いので、1ケ月くらい経ってからSMに変えた。」
  •  「SM」という言葉が世間一般に通用するようになったのは70年代に入ってからのことである。

代表作

「女性腋窩譚」奇譚クラブ

関連文献

お役たちweb

http://ameblo.jp/takashi-san/entry-10293076551.html http://homepage1.nifty.com/rapeclub/09hourouki/061.htm http://smsyousetsukan.so-netsns.jp/