たこ八郎

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たこ はちろう、1940年(昭和15年)11月23日 - 1985年(昭和60年)7月24日

活動内容

ボクサー。俳優。

別名

Hachiro Tako、斎藤 清作(本名) 、太古八郎、河童の清作、たこちゃん、たこ

略歴

1940年(昭和15年)11月23日、宮城県仙台市郊外苦竹村に生まれる。

1950年代、ボクシングで宮城県高校王者に2度なる。

1958年(昭和33年)、 銀座の貴金属店「銀パリ宝飾」に就職[注 1]。半年で辞めて学芸大学前にアパートを借り、映画のフィルムを自転車で映画館から映画館に運ぶ仕事[注 2]

1959年(昭和34年)の暮れ 笹崎ボクシングジムを見つけて入会[注 3]。同期にファイティング原田。

1960年(昭和35年)9月、プロデビュー。

1962年(昭和37年)12月28日、日本フライ級王座に挑戦。野口恭に10回判定勝ちで王座獲得。以後2回防衛。

1963年頃、最初の由利徹に弟子入りを希望[注 4]

1964年(昭和39年)4月2日、日本王座3度目の防衛戦。10回判定で敗れ王座陥落し、現役引退[注 5]

1964年(昭和39年)春、再び由利徹を訪れ弟子入り。

1965年(昭和40年)、由利の所を去る。失禁、言語障害の後遺症に悩まされる【以上、断りの無い限り、文献[1]を参照】。

1965年(昭和40年)以降、由利の所を去った後は、ピンク映画に出ていたが、しばらくして、泉和助[注 6]のところに1年ほど通う。日劇ミュージックホールに出ていた[2]

1966年(昭和41年)、泉和助の紹介で泉太郎[注 7]の劇団「泉太郎と喜劇の楽園」に入団。芝居のない時は「太郎ちゃんトリオ」で地方を回る。2年間いたが、この時期にトレードマークのヘアスタイルを確立[2]

1966年(昭和41年)、6月公開のヤマベプロ『汚辱の女』に出演。監督は高木丈夫 岸信太郎、脚本は黒岩松次郎こと団鬼六

1968年頃?、はな太郎[注 8]のところに2年間ほど世話になる。はな太郎とは一緒に仕事はせずに居候。主にピンク映画の出演[注 9]とピンク芝居[注 10]が主な仕事。由利徹のところを出てから役10年間は住所不定の生活[2]

1968年(昭和43年)、ヤマベプロ作品の『鞭と陰獣』『続・花と蛇 赤い拷問』(いずれも松原次郎監督)などに出演。

1968年頃?、歌舞伎町の「竹馬」で赤塚不二夫と知り合う[2]

1975年(昭和50年)?、新宿百人町の四畳半のアパートを借りる。

1976年(昭和51年)、外波山文明主宰の「はみだし劇場」浅草公演『浅草円舞曲』に出演[注 11]

1977年(昭和52年)、『幸福の黄色いハンカチ』(山田洋次監督。松竹)に出演。

1983年(昭和58年)?、新宿百人町の6畳のアパートに引っ越し。

エピソード

作品

映画

参考資料

  1. 笹倉明『昭和のチャンプ たこ八郎物語』(集英社, 1988)
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 たこ八郎『たこでーす』(アス出版, 1983)

注釈

  1. 『たこでーす』では「銀パリ宝飾」ではなく「銀水堂」となっている。
  2. 『たこでーす』では「銀水堂」の系列の「池上劇場」に支配人見習いで入ったが、フィルム運びに回されたと書いている。
  3. 『たこでーす』では、この頃フィルム運びもやめたとある。旋盤工を新たに始めた。
  4. 困った由利は、防衛を重ねて、ファンを増やし、どうしようもなくなった時に再度来なさいと追い返す。
  5. 戦績は四一戦三二勝八敗一分け。KO負けはなし。
  6. ボードビリアンで、タップ、手品、殺陣などもこなした。1958年(昭和33年)頃ヨーロッパで修行していた。
  7. 泉和助の弟子で、後の二代目泉ワ輔。小太郎とも呼ばれていた。
  8. 由利徹一門。
  9. 「ピンク映画に最初に出たのは小林悟の『花となんとか』って映画。東映で『花と龍』ってのをやってね、それで小林さん『花となんとか』ってのを撮ったの。」とたこ八郎は証言しているが、記憶違いではないか?
  10. 団鬼六がシナリオを書き、新宿座、地球座で映画の間に公演。白川和子、谷ナオミ、二条朱美、山本昌平と。
  11. 朝日新聞に「たこ八郎・アングラ劇で二度目の浅草」として取り上げられる。

つながり

団鬼六 濡木痴夢男

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