講談倶楽部

提供:SMpedia
ファイル:Magagine.jpg
雑誌名19xx年(昭和xx年)x月号

ざっしめい

概要

発行年・出版社

1911年(明治44年)11月、創刊  大日本雄弁会

1962年(昭和37年)12月、終刊 講談社

発行人・編集人

編集人:三木章、発行人:有木勉(1962年(昭和37年)12月号)。

主な出来事

1911年(明治44年)11月、大日本雄弁会から創刊。

1925年(大正14年)、大日本雄弁会大日本雄弁会講談社と改称。

1946年(昭和21年)2月号、休刊。

1949年(昭和24年)1月号、復刊[注 1]

1953年(昭和28年)8月1日、講談倶楽部第5巻第9号(8月号)に林家正蔵中村勘三郎三味線豊吉伊藤晴雨座談会 怪談夏の夜ばなし』。103円。編集兼発行人:有木勉

谷中全生庵所蔵の幽霊画を伊藤晴雨が解説。全生庵住職の山本玄実伊藤晴雨が並ぶ写真も。

1958年(昭和33年)、大日本雄弁会講談社講談社と改称。

1962年(昭和37年)12月、終刊。

エピソード

  • 戦後、横溝正史や高木彬光が「犯人探し探偵小説」を発表[1]
  • 昭和初期、江戸川乱歩が「蜘蛛男」や「人間豹」等の大衆向け探偵小説を発表している[1]
  • 岩田専太郎富永謙太郎がカラー口絵として「私の描く女性」を連載発表[1]
  • 昭和27年1月頃、第2代大阪支社長として由井千春が赴任。初代大阪支社長の笛木悌治は本社勤務となる[1]
  • 昭和33年から昭和34年にかけ、高木彬光が世界の謎と神秘を紹介した連作小説を百谷泉一郎名義で発表している[1]
  • 山下久一郎が「1925年(大正14年)頃『講談倶楽部』などの緊縛絵に心惹かれる」と述懐している[1]
  • 岡本綺堂『冬の金魚講談倶楽部 1924年(大正13年)頃。挿絵:井川洗崖
  • 廃刊後、後続雑誌として『小説現代』が創刊された。ただし、巻号数は『講談倶楽部』から引き継いでいない[1]
  • 復刊直後から山手樹一郎が覆面作家名義で「新篇八犬伝」を連載(連載途中から作者名を暴露している)[1]
  • 源氏鶏太が「講談倶楽部と私」(連載エッセイ「人間の椅子」第12回)で同誌の思い出を綴っている[1]
  • 吉川英治が死去した際、野間省一社長による「吉川英治先生を悼む」が掲載された(昭和37年11月号)[1]
  • 引っ越し魔として知られる高木彬光が「住居の因縁」を寄稿(昭和37年12月号)[1]

代表作

  • 江戸川乱歩「蜘蛛男」1929年(昭和4年)8月号~1930年(昭和5年)6月号。
  • 江戸川乱歩「緑衣の鬼」1936年(昭和11年)1月号~12月号。Eden Phillpottsの「The Red Redmaynes」を翻案した探偵小説。
  • 江戸川乱歩「暗黒星」1939年(昭和14年)1月号~12月号。
  • 角田喜久雄「緋牡丹盗賊」1949年(昭和24年)1月号~1950年(昭和25年)12月号。後半は「続編・伝説死人谷」として連載。
  • 高木彬光/山田風太郎「悪霊の群」1951年(昭和26年)10月号~1952年(昭和27年)9月号。
  • 角田喜久雄「妖異忠臣蔵」1952年(昭和27年)1月号~12月号。
  • 山手樹一郎野ざらし姫講談倶楽部1953年(昭和28年)4月号。挿絵:岩田専太郎[注 2]
  • 林家正蔵・中村勘三郎・三味線豊吉・伊藤晴雨座談会 怪談夏の夜ばなし講談倶楽部1953年(昭和28年)8月号
  • 横溝正史「幽霊男」1954年(昭和29年)1月号~10月号。
  • 横溝正史「吸血蛾」1955年(昭和30年)1月号~12月号。
  • 山田風太郎「八陣忍法帖」1962年(昭和37年)5月号~12月号[注 3]
  • 山手樹一郎「隠密三国志」1961年(昭和36年)1月号~1962年(昭和37年)11月号 挿絵:志村立美[注 4]

引用文献

注釈

  1. 実際の発行年月は月号表示と異なる為、昭和23年末頃に発売されたと思われる
  2. 高月大三戦後の挿繪に現れた女の責め場奇譚クラブ 1953年(昭和28年)5月号, 口絵で紹介されている。
  3. 未完。単行本化の際に加筆して完結させた
  4. 連載16回目と17回目に美女の緊縛を描いた挿絵あり

お役たちweb

つながり