浦戸宏

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うらど ひろし、1933年(昭和8年)11月19日-

活動内容

緊縛師。編集者。

別名

Hiroshi Urado、読みは本来は「うらど」だが「うらと」と呼ばれることが多い[1]

略歴

1933年(昭和8年)11月19日、高知県生まれ[1]

1950年代、法政大学社会学部卒業。卒業後は教科書、児童書の編集者[1]

1961年(昭和36年)頃、「裏窓」(久保書店)の見習い編集者として友人の身代わりで面接に行き、それ以後四年ほど須磨利之の下で教えられた[2]引用エラー: 無効な <ref> タグです。名前 (name 属性) がない場合は注釈の中身が必要です当時、マンハントの編集に3名、裏窓の編集にキミという女性ひとりが携わっていた。須磨は少女雑誌『抒情文芸』の発刊準備に追われていた。(Master "K"私信)。

1965年頃、久保書店を退社し『白竜社』を設立する。明治維新関係の本を出版[1][注 1]

1969-1970頃 富士五湖湖畔の団別荘に10名ぐらいで遊びに行く。谷ナオミをモデルにネズミ小僧の撮影を目黒の団鬼六邸でやろうと盛り上がる。その後、実際鬼六邸で撮影。そ

1970年7月に三崎岬で宮下順子を縛る。これはSMキング48年4月増刊号「緊縛の宴」に「漂泊の女」として出ている。

1974年5月 にっかつ「花と蛇」で谷ナオミを縛る。にっかつ撮影所で台本を渡され一読した感想を率直に言えば「なんじゃこれは!」様式美のかけらも読み取ることができなかった。スタッフは30名を超えていた。「なめられたくないから、お互いに頑張ろうよ」と谷ナオミ。谷は日活には2年前にデビュー。当時の日活にはSMポルに対してある種の偏見。地下室の監禁されている谷の縛り方に対して、監督と決定的な意見の違い。監督はぐるぐる巻きしてくれと言う。浦戸は1本で縛らないとだめだと主張。「こんな下らない縛りをするために来たんじゃないぞ!」と言ってしまい場をしらけさす。その時谷が「あんた!言いすぎよ。プロならプロらしく監督の言うとおりになりなさいよ!」とぞっとする気迫で怒る。(「回想のにっかつ銀幕物語」12月号)

1974年、「生贄夫人」の制作。脚本は前回と同じ田中。8月下旬に初めて田中を紹介され、小沼と3人で縛りのことを相談。したがって、この映画では脚本段階から参加していた。東の浣腸シーンは気合いを入れて撮影。谷の排泄シーンはバナナで作る。リアルすぎて映倫がカット(「回想のにっかつ銀幕物語」2月号)。

1974年、1974「花と蛇」と「生贄夫人」の間に、谷ナオミのファンの集いに参加し、2度縛る。付き人に東てる美がついてきた(「回想のにっかつ銀幕物語」2月号)。

1977年、「貴婦人縛り壺」で久しぶりに「谷・小沼」コンビ。それまでに谷は6,7本のSMに出演していたが、それらの縛りは60半ばのフリーカメラマンA氏が担当。撮影中に勝手にスチールを撮影することで谷との間にトラブル。急遽撮影寸前に浦戸に依頼が来る。原稿をもらうのも寸前。谷もスターになり、谷のスケジュールにあわせて撮影が進行。田島はるかを知る。(「回想のにっかつ銀幕物語」6,7月号)。

1978年1月、 西村と初めて映画を作る。「黒薔薇夫人」。制作の結城良煕と脚本の桂千穂と西村で会い相談。その頃出版社でバイトしていた。田島を推薦した(「回想のにっかつ銀幕物語」2月号)。

エピソード

  • 大学時代は映画三昧の生活で、卒業に8年かかる[1]
  • 世田介一と同い年。
  • 「緊縛指導」ではなく「ロープマン」という呼び方が好き。
  • にっかつ以前にピンク映画で縛り係。

代表作

SMスピリッツ1989年〜1991年「回想のにっかつ銀幕物語」

引用文献

注釈

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 Master "K"からの"私信
  2. 浦戸宏『回想のにっかつ銀幕物語』SMスピリッツ1989年〜1991年

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