枷井克哉

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かしい かつや (生年不明)


活動内容

写真家。文筆家。

別名

Katsuya Kashii、浅野美樹[note 1]豊幹一郎稲田乾二[note 2]

略歴

1976年(昭和51年)11月14日、濡木痴夢男と知り合う。その後濡木の雑誌のグラビア撮影に同行して緊縛写真を撮り続ける[note 3][1]

1979年(昭和54年)5月頃になると、緊縛師、写真家に焦点が当てられ、枷井克哉の名前で仕事をし始める。

緊美研の古い会員。

エピソード

  • 蜂胴マニアで、また肋骨が浮き出るほど痩せた女性が好み。肋骨美、骨体美を主軸とした被虐美の中に『惨』を感じ、それが常に『美』と重なる。また蝋涙責めを好んだ。[1]
  • 戦後、赤線が廃止された頃、吉原、浅草六区にヌードスタジオが乱立した。枷井はこのようなスタジオの通い、写真を撮っていた。ただし、通常この手のヌードスタジオでは簡単には写真は撮らせてくれない。やがてこの種のヌードスタジオはソープやピンク・キャバレーの出現です衰退[1]
  • ロック座、カジノ座、セントラル、美人座、百万弗劇場などのヌード小屋に通い詰め隠し撮りをしていた。後には許可を得て撮影。銀座のヌード劇場に比べて照明が暗いのが好みに合っていた。ヌード劇場でおこなわれるSMショーは芝居がかっているということで興味を持たなかった[1]
  • 月明かりのような最小限の照明を重視。アンダー過ぎて印刷が難しかった。また、緊縛写真に「動き」を持ち込んだのも枷井とされる。[1]
  • 『これまで何十人というカメラマンとつきあってきたが、この枷井カメラマンこそ、伊藤晴雨の精神を継ぐ、唯一の人間だ』(濡木痴夢男)[1]
  • 豊幹一郎[note 2]ユニットのカラー写真は全て不二が撮影した。
  • 「百花苑」「熱海旅館」「けごん」などを撮影によく使う。緊美研の初期の撮影は「熱海旅館」が使われる[1]
  • 永井荷風を崇敬[1]

代表作

写真

  • 1978年(昭和53年)SMコレクターの巻頭グラビアに豊幹一郎として初登場[note 2]。その後「豊幹一郎の世界」「豊幹一郎の縄の世界」「豊幹一郎の撮影同行記」と名をかえて連載。
  • 1979年(昭和54年)SMコレクターの田代摩耶をモデルに使った作品は代表作。向島「百花苑」で撮影されたもの。田代摩耶は素人モデル。

小説・エッセイ

  • 浅野美樹『美虐の葬送曲』SMセレクト1979年(昭和54年)年5月号
  • 枷井克哉『被虐美を追い求めて』 小説SMセレクト1980年(昭和55年)年4月号
  • 浅野美樹『蜂の胴惨歌』 小説SMセレクト1980年(昭和55年)年10月号
  • 枷井克哉『肋骨美に魅せられて』 小説SMセレクト1981年(昭和56年)年4月号
  • 枷井克哉『月明女人虐譜』 SMセレクト1981年(昭和56年)年6月号
  • 枷井克哉『苦言・妄言そして私の淫夢』緊美研通信1996年(平成8年)9月第17号

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 『日本緊縛写真史 1』 (秋田昌美、濡木痴夢男、不二秋夫。1996, 自由国民社)。

ノート

  1. 正確には枷井克哉の草案に濡木痴夢男が小説的脚色を加えてこのペンネームで作品を発表している。(日本緊縛写真史)
  2. 2.0 2.1 2.2 豊幹一郎稲田乾二は緊縛が濡木痴夢男、カメラが枷井克哉、カメラアシスタントが不二秋夫の合体プロジェクト名。「ゆたか編集室」という名義で雑誌の仕事を請け負っていた。これが緊美研の母体(日本緊縛写真史より)。
  3. 向島の割烹旅館「百花苑」で催された星野小麿が主催する第1回「解語の花」に枷井克哉が講師として招かれる。そこに濡木が緊縛・演出家として招かれていた。この回はその後20回まで開催され、そこに不二秋夫須賀忠も参加していた。

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