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'''かしい かつや''' (生年不明)
[[画像:kaigo.jpg|250px|thumbnail|[[濡木痴夢男]]が講師をしていた[[解語の花]]の1979年(昭和54年)5月13日の撮影会での[[枷井克哉]]の作品。モデルはミレーヌみゆき。]]
'''かしい かつや'''(生年不明)。70-80年代の写真家。[[濡木痴夢男]]をして「(彼こそ)[[伊藤晴雨]]の精神を継ぐ」と言わしめる。蜂胴マニアで蝋燭責めも好む。アンダー気味の作品が特徴
[[画像:Atami3.jpg|150px|thumbnail|[[熱海旅館]]で1986年(昭和61年)5月4日におこなわれた[[緊美研]]の第5回会合。モデルは[[神谷琴絵]]。写真は[[枷井克哉]]。[[緊美研通信]]第17号(1996.9)より。]]




==活動内容==
==概要==
写真家。文筆家。
写真家。文筆家。[[緊美研]]の古い会員。


==別名==
==別名==
[http://www.nawapedia.com/index.php?title=Katsuya_Kashii Katsuya Kashii]、浅野美樹<ref group="note" name="ex01">正確には枷井克哉の草案に[[濡木痴夢男]]が小説的脚色を加えてこのペンネームで作品を発表している。(日本緊縛写真史)</ref>、[[豊幹一郎]]、[[稲田乾二]]<ref group="note"  name="toyo">[[豊幹一郎]]、[[稲田乾二]]は緊縛が[[濡木痴夢男]]、カメラが[[枷井克哉]]、カメラアシスタントが[[不二秋夫]]の合体プロジェクト名。「ゆたか編集室」という名義で雑誌の仕事を請け負っていた。これが[[緊美研]]の母体(日本緊縛写真史より)。</ref>
[http://www.nawapedia.com/index.php?title=Katsuya_Kashii Katsuya Kashii]、浅野美樹<ref group="" name="ex01">正確には枷井克哉の草案に[[濡木痴夢男]]が小説的脚色を加えてこのペンネームで作品を発表している。(日本緊縛写真史)</ref>、[[豊幹一郎]]、[[稲田乾二]]<ref group=""  name="toyo">[[豊幹一郎]]、[[稲田乾二]]は緊縛が[[濡木痴夢男]]、カメラが[[枷井克哉]]、カメラアシスタントが[[不二秋夫]]の合体プロジェクト名。「ゆたか編集室」という名義で雑誌の仕事を請け負っていた。これが[[緊美研]]の母体(日本緊縛写真史より)。</ref>、[[枷井克也]]<ref group="注" name="ex03">[[SMグラフティ]]にカメラ:[[枷井克也]]、繩師:[[藤村豊三]]の組合せで名前が出ている。おそらく、[[枷井克哉]]と[[濡木痴夢男]]の変名であろう。</ref>


==略歴==
==略歴==
1976年(昭和51年)11月14日、[[濡木痴夢男]]と知り合う。その後[[濡木痴夢男|濡木]]の雑誌のグラビア撮影に同行して緊縛写真を撮り続ける<ref group="note">向島の割烹旅館「[[SM聖地|百花苑]]」で催された星野小麿が主催する第1回「解語の花」に枷井克哉が講師として招かれる。そこに[[濡木痴夢男|濡木]]が緊縛・演出家として招かれていた。この回はその後20回まで開催され、そこに[[不二秋夫]][[須賀忠]]も参加していた。</ref><ref name="写真史"></ref>。
1976年(昭和51年)11月14日、[[星野小麿]]主宰[[KPC]]の分科会の1つとして第1回『[[解語の花]]』が[[百花苑]]で開かれ[[枷井克哉]]は会員として参加。講師は[[濡木痴夢男]]。モデルは[[深美ジュン]]<ref name="nurekiwork">[[濡木痴夢男仕事メモ]]</ref>。


1979年(昭和54年)5月頃になると、緊縛師、写真家に焦点が当てられ、枷井克哉の名前で仕事をし始める。
1977年(昭和52年)4月2日、第6回撮影会『[[解語の花]]』が'''東劇スタジオ'''にて開催。


[[緊美研]]の古い会員。
1978年(昭和53年)、[[豊幹一郎]]の名義でS&Mコレクターのカラーグラビアに作品発表<ref>日本緊縛写真史</ref>
 
1979年(昭和54年)5月頃になると、緊縛師、写真家に焦点が当てられ、[[枷井克哉]]の名前で仕事をし始める。
 
1981年(昭和56年)2月、[[SMグラフティ]]2月号に[[枷井克也]]の名でカラー緊縛写真が<ref group="注" name="ex03"></ref>。[[枷井克哉]]か?
 
1996年(平成8年)夏、この頃から体調を崩す<ref name="kinbiken19">[[緊美研通信]]再19号</ref>。


==エピソード==
==エピソード==
*蜂胴マニアで、また肋骨が浮き出るほど痩せた女性が好み。肋骨美、骨体美を主軸とした被虐美の中に『惨』を感じ、それが常に『美』と重なる。また蝋涙責めを好んだ。<ref name="写真史">『日本緊縛写真史 1』 (秋田昌美、濡木痴夢男、不二秋夫。1996, 自由国民社)。</ref>。
*蜂胴マニアで、また肋骨が浮き出るほど痩せた女性が好み。肋骨美、骨体美を主軸とした被虐美の中に『惨』を感じ、それが常に『美』と重なる。また蝋涙責めを好んだ。<ref name="写真史">『日本緊縛写真史 1』 (秋田昌美、濡木痴夢男、不二秋夫。1996, [[自由国民社]])。</ref>。
*戦後、赤線が廃止された頃、吉原、浅草六区にヌードスタジオが乱立した。枷井はこのようなスタジオの通い、写真を撮っていた。ただし、通常この手のヌードスタジオでは簡単には写真は撮らせてくれない。やがてこの種のヌードスタジオはソープやピンク・キャバレーの出現です衰退<ref name="写真史"></ref>。
*戦後、赤線が廃止された頃、吉原、浅草六区にヌードスタジオが乱立した。枷井はこのようなスタジオの通い、写真を撮っていた。ただし、通常この手のヌードスタジオでは簡単には写真は撮らせてくれない。やがてこの種のヌードスタジオはソープやピンク・キャバレーの出現です衰退<ref name="写真史"></ref>。
*ロック座、カジノ座、セントラル、美人座、百万弗劇場などのヌード小屋に通い詰め隠し撮りをしていた。後には許可を得て撮影。銀座のヌード劇場に比べて照明が暗いのが好みに合っていた。ヌード劇場でおこなわれるSMショーは芝居がかっているということで興味を持たなかった<ref name="写真史"></ref>。
*[[枷井克哉]]は[[ロック座]]、[[カジノ座]]、[[セントラル]]、[[美人座]]、[[百万弗劇場]]などのヌード小屋に通い詰め隠し撮りをしていた。後には許可を得て撮影。銀座のヌード劇場に比べて照明が暗いのが好みに合っていた。ヌード劇場でおこなわれるSMショーは芝居がかっているということで興味を持たなかった<ref name="写真史"></ref>。
*月明かりのような最小限の照明を重視。アンダー過ぎて印刷が難しかった。また、緊縛写真に「動き」を持ち込んだのも枷井とされる。<ref name="写真史"></ref>。
*月明かりのような最小限の照明を重視。アンダー過ぎて印刷が難しかった。また、緊縛写真に「動き」を持ち込んだのも枷井とされる。<ref name="写真史"></ref>。
*『これまで何十人というカメラマンとつきあってきたが、この枷井カメラマンこそ、[[伊藤晴雨]]の精神を継ぐ、唯一の人間だ』([[濡木痴夢男]])<ref name="写真史"></ref>
*『これまで何十人というカメラマンとつきあってきたが、この枷井カメラマンこそ、[[伊藤晴雨]]の精神を継ぐ、唯一の人間だ』([[濡木痴夢男]])<ref name="写真史"></ref>。
*豊幹一郎<ref group=""  name="toyo"></ref>ユニットのカラー写真は全て[[不二秋夫|不二]]が撮影した。
*豊幹一郎<ref group="note"  name="toyo"></ref>ユニットのカラー写真は全て[[不二秋夫|不二]]が撮影した。
*「[[百花苑]]」「[[熱海旅館]]」「[[けごん旅館]]」などを撮影によく使う。[[緊美研]]の初期の撮影は「[[熱海旅館]]」が使われる<ref name="写真史"></ref>。
*「百花苑」「熱海旅館」「けごん」などを撮影によく使う。緊美研の初期の撮影は「熱海旅館」が使われる<ref name="写真史"></ref>。
*永井荷風を崇敬<ref name="写真史"></ref>。
*永井荷風を崇敬<ref name="写真史"></ref>。


==代表作==
==代表作==
[[画像:kaigo2.jpg|150px|thumbnail|『'''熱く悶えて'''』[[SMプレイ情報]]1982年(昭和57年)11月号]]
[[画像:kaigo3.jpg|150px|thumbnail|『'''熱く悶えて'''』[[SMプレイ情報]]1982年(昭和57年)11月号]]
===写真===
===写真===
*1978年(昭和53年)[[SMコレクター]]の巻頭グラビアに[[豊幹一郎]]として初登場<ref group="note"  name="toyo"></ref>。その後「豊幹一郎の世界」「豊幹一郎の縄の世界」「豊幹一郎の撮影同行記」と名をかえて連載。
*1978年(昭和53年)[[SMコレクター]]の巻頭グラビアに[[豊幹一郎]]として初登場<ref group=""  name="toyo"></ref>。その後「豊幹一郎の世界」「豊幹一郎の縄の世界」「豊幹一郎の撮影同行記」と名をかえて連載。
* 1979年(昭和54年)[[SMコレクター]]の田代摩耶をモデルに使った作品は代表作。向島「百花苑」で撮影されたもの。田代摩耶は素人モデル。
*[[枷井克哉]]『'''廃屋に荒縄が唸る'''』[[小説SMセレクト]]1978年(昭和53年)10月号
 
*1979年(昭和54年)[[SMコレクター]]の田代摩耶をモデルに使った作品は代表作。向島「百花苑」で撮影されたもの。田代摩耶は素人モデル。
*『'''熱く悶えて'''』[[S&Mスナイパー]]1989年(平成元年)3月号
===小説・エッセイ===
===小説・エッセイ===
*浅野美樹『美虐の葬送曲』[[SMセレクト]]1979年(昭和54年)年5月号
*[[枷井克哉]]『'''妖艶乱れ浴衣'''』[[小説SMセレクト]]1978年(昭和53年)6月号
*枷井克哉『被虐美を追い求めて』   [[小説SMセレクト]]1980年(昭和55年)年4月号
*[[枷井克哉|浅野美樹]]『'''美虐の葬送曲'''』[[SMセレクト]]1979年(昭和54年)年5月号
*浅野美樹『蜂の胴惨歌』   [[小説SMセレクト]]1980年(昭和55年)年10月号
*[[枷井克哉]]『'''被虐美を追い求めて'''』   [[小説SMセレクト]]1980年(昭和55年)年4月号
*枷井克哉『肋骨美に魅せられて』   [[小説SMセレクト]]1981年(昭和56年)年4月号
*[[枷井克哉|浅野美樹]]『'''蜂の胴惨歌'''』   [[小説SMセレクト]]1980年(昭和55年)年10月号
*枷井克哉『月明女人虐譜』   [[SMセレクト]]1981年(昭和56年)年6月号
*[[枷井克哉]]『'''奴隷一号・久美子'''』    [[SM奇談POCKET]]1981年(昭和56年)年1月号
*[[枷井克哉]]『'''肋骨美に魅せられて'''』   [[小説SMセレクト]]1981年(昭和56年)年4月号
*[[枷井克哉]]『'''月明女人虐譜'''』   [[SMセレクト]]1981年(昭和56年)年6月号
*[[枷井克哉]]『'''苦言・妄言そして私の淫夢'''』[[緊美研通信]]1996年(平成8年)9月第17号
*[[枷井克哉]]『'''私の緊縛写真美学'''』[[緊美研通信]]1997年(平成9年)7月第19号


==脚注==
==脚注==
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==ノート==
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==お役たちweb==
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==つながり==
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濡木痴夢男が講師をしていた解語の花の1979年(昭和54年)5月13日の撮影会での枷井克哉の作品。モデルはミレーヌみゆき。

かしい かつや(生年不明)。70-80年代の写真家。濡木痴夢男をして「(彼こそ)伊藤晴雨の精神を継ぐ」と言わしめる。蜂胴マニアで蝋燭責めも好む。アンダー気味の作品が特徴

熱海旅館で1986年(昭和61年)5月4日におこなわれた緊美研の第5回会合。モデルは神谷琴絵。写真は枷井克哉緊美研通信第17号(1996.9)より。


概要

写真家。文筆家。緊美研の古い会員。

別名

Katsuya Kashii、浅野美樹[注 1]豊幹一郎稲田乾二[注 2]枷井克也[注 3]

略歴

1976年(昭和51年)11月14日、星野小麿主宰KPCの分科会の1つとして第1回『解語の花』が百花苑で開かれ枷井克哉は会員として参加。講師は濡木痴夢男。モデルは深美ジュン[1]

1977年(昭和52年)4月2日、第6回撮影会『解語の花』が東劇スタジオにて開催。

1978年(昭和53年)、豊幹一郎の名義でS&Mコレクターのカラーグラビアに作品発表[2]

1979年(昭和54年)5月頃になると、緊縛師、写真家に焦点が当てられ、枷井克哉の名前で仕事をし始める。

1981年(昭和56年)2月、SMグラフティ2月号に枷井克也の名でカラー緊縛写真が[注 3]枷井克哉か?

1996年(平成8年)夏、この頃から体調を崩す[3]

エピソード

  • 蜂胴マニアで、また肋骨が浮き出るほど痩せた女性が好み。肋骨美、骨体美を主軸とした被虐美の中に『惨』を感じ、それが常に『美』と重なる。また蝋涙責めを好んだ。[4]
  • 戦後、赤線が廃止された頃、吉原、浅草六区にヌードスタジオが乱立した。枷井はこのようなスタジオの通い、写真を撮っていた。ただし、通常この手のヌードスタジオでは簡単には写真は撮らせてくれない。やがてこの種のヌードスタジオはソープやピンク・キャバレーの出現です衰退[4]
  • 枷井克哉ロック座カジノ座セントラル美人座百万弗劇場などのヌード小屋に通い詰め隠し撮りをしていた。後には許可を得て撮影。銀座のヌード劇場に比べて照明が暗いのが好みに合っていた。ヌード劇場でおこなわれるSMショーは芝居がかっているということで興味を持たなかった[4]
  • 月明かりのような最小限の照明を重視。アンダー過ぎて印刷が難しかった。また、緊縛写真に「動き」を持ち込んだのも枷井とされる。[4]
  • 『これまで何十人というカメラマンとつきあってきたが、この枷井カメラマンこそ、伊藤晴雨の精神を継ぐ、唯一の人間だ』(濡木痴夢男)[4]
  • 豊幹一郎[注 2]ユニットのカラー写真は全て不二が撮影した。
  • 百花苑」「熱海旅館」「けごん旅館」などを撮影によく使う。緊美研の初期の撮影は「熱海旅館」が使われる[4]
  • 永井荷風を崇敬[4]

代表作

熱く悶えてSMプレイ情報1982年(昭和57年)11月号
熱く悶えてSMプレイ情報1982年(昭和57年)11月号

写真

  • 1978年(昭和53年)SMコレクターの巻頭グラビアに豊幹一郎として初登場[注 2]。その後「豊幹一郎の世界」「豊幹一郎の縄の世界」「豊幹一郎の撮影同行記」と名をかえて連載。
  • 枷井克哉廃屋に荒縄が唸る小説SMセレクト1978年(昭和53年)10月号
  • 1979年(昭和54年)SMコレクターの田代摩耶をモデルに使った作品は代表作。向島「百花苑」で撮影されたもの。田代摩耶は素人モデル。
  • 熱く悶えてS&Mスナイパー1989年(平成元年)3月号

小説・エッセイ

脚注

  1. 濡木痴夢男仕事メモ
  2. 日本緊縛写真史
  3. 緊美研通信再19号
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 4.5 4.6 『日本緊縛写真史 1』 (秋田昌美、濡木痴夢男、不二秋夫。1996, 自由国民社)。

ノート

  1. 正確には枷井克哉の草案に濡木痴夢男が小説的脚色を加えてこのペンネームで作品を発表している。(日本緊縛写真史)
  2. 2.0 2.1 2.2 豊幹一郎稲田乾二は緊縛が濡木痴夢男、カメラが枷井克哉、カメラアシスタントが不二秋夫の合体プロジェクト名。「ゆたか編集室」という名義で雑誌の仕事を請け負っていた。これが緊美研の母体(日本緊縛写真史より)。
  3. 3.0 3.1 SMグラフティにカメラ:枷井克也、繩師:藤村豊三の組合せで名前が出ている。おそらく、枷井克哉濡木痴夢男の変名であろう。

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つながり

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