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[[画像:Uramado.jpg|150px|thumbnail|[[裏窓]] 1957年(昭和32年)3月号]]
==概説==
==概説==
1953年(昭和28)年4月1日[[久保藤吉]]により設立された出版社。[[久保藤吉]]はそれ以前から、[[大元社]]を経営していた模様。[[高橋鐵]]と関係の深い[[あまとりあ社]]と同一会社と考えて良い。[[中田雅久]]、[[須磨利之]]、[[濡木痴夢男]]、[[椋陽児]]、[[浦戸宏]]などの編集者が在籍し、『[[かっぱ]]』『[[裏窓]]』『[[耽奇小説]]』などの雑誌や、他のSM歴史上重要な書籍を発行している。
1953年(昭和28)年4月1日[[久保藤吉]]により設立された出版社。[[久保藤吉]]がそれ以前から経営していた[[大元社]]と、[[高橋鐵]]と関係の深い[[あまとりあ社]]の3社は同一会社と考えて良い。[[中田雅久]]、[[須磨利之]]、[[濡木痴夢男]]、[[椋陽児]]、[[浦戸宏]]などの編集者が在籍し、『[[かっぱ]]』『[[裏窓]]』『[[耽奇小説]]』などの雑誌や、他のSM歴史上重要な書籍を発行している。


==歴史==
==歴史==
1949年(昭和24年)[[高橋鐵]]『'''あるす・あまとりあ'''』を発行。大ヒットとなる。
1946年(昭和21年)、[[久保藤吉]]の[[大元社]]から[[式場隆三郎]]『'''夜想'''』が出版。
 
1949年(昭和24年)頃、[[久保藤吉]]は[[高橋鐵]]を知る<ref group="注">[[久保藤吉]]は当時話題となっていたヴェルデの『完全なる結婚』を意識した出版を模索していたところ、東京タイムスの大村氏に[[高橋鐵]]を紹介されて訪問。書きかけの『'''あるす・あまとりあ'''』の原稿を一目見て出版を決意。[[式場隆三郎]]の推奨を得る。</ref><ref name="dendou">鈴木敏文『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4309241417?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4309241417 '''性の伝道者 高橋鉄]'''』([[河出書房新社]], 1993)</ref>。
 
1949年(昭和24年)11月30日、[[あまとりあ社]]から[[高橋鐵]]『'''あるす・あまとりあ'''』<ref group="注">ヴァン・デ・ヴェルデの『完全なる結婚』を意識した作品。</ref>を発行。60万部を超す大ヒットとなる。


1951年(昭和26年)2月1日、[[久保藤吉]]が編集・発行人で[[あまとりあ]]創刊。発行所は[[あまとりあ社]]とある<ref group="注">株式会社になっていなかったのかもしれない。</ref>。
1951年(昭和26年)2月1日、[[久保藤吉]]が編集・発行人で[[あまとりあ]]創刊。発行所は[[あまとりあ社]]とある<ref group="注">株式会社になっていなかったのかもしれない。</ref>。


1953年(昭和28)年4月1日、株式会社久保書店が[[久保藤吉]]により設立。続いて、4月10日は株式会社[[あまとりあ社]]創立<ref>同社HPより</ref>。[[あまとりあ]]の実質上の編集室は[[高橋鐵]]宅。
1953年(昭和28)年4月1日、株式会社久保書店が[[久保藤吉]]により設立。続いて、4月10日に株式会社[[あまとりあ社]]創立<ref>同社HPより</ref>。[[あまとりあ]]の実質上の編集室は[[高橋鐵]]宅。


1955年(昭和30年)、[[須磨利之]]が入社。
1955年(昭和30年)、[[須磨利之]]が入社。


1955年(昭和30年)6月、少なくともこの時点で[[あまとりあ]]の編集人が[[中田雅久]]となっている<ref group="注">[中田雅久]]は創刊当時から編集の中心だったと思われる。</ref>。
1955年(昭和30年)6月、少なくともこの時点で[[あまとりあ]]の編集人が[[中田雅久]]となっている<ref group="注">[[中田雅久]]は創刊当時から編集の中心だったと思われる。</ref>。


1955年(昭和30年)8月、[[あまとりあ]]廃刊。終刊号の編集に[[須磨利之]]が関わっている。
1955年(昭和30年)8月、[[あまとりあ]]廃刊。終刊号の編集に[[須磨利之]]が関わっている。
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1958年(昭和33年)8月、[[マンハント]]が[[中田雅久]]編集人で発行。
1958年(昭和33年)8月、[[マンハント]]が[[中田雅久]]編集人で発行。
1961年(昭和36年)9月20日、[[濡木痴夢男]]が入社。


1961年(昭和36年)、[[裏窓]]1962年(昭和37年))1月号から[[須磨利之]]の後を継いで[[濡木痴夢男]]が編集長。
1961年(昭和36年)、[[裏窓]]1962年(昭和37年))1月号から[[須磨利之]]の後を継いで[[濡木痴夢男]]が編集長。
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1961年(昭和36年)8月、[[浦戸宏]]が入社<ref group="注">当時、[[マンハント]]の編集に3名、[[裏窓]]の編集にキミという女性ひとりが携わっていた。[[須磨利之|須磨]]は少女雑誌『抒情文芸』の発刊準備に追われていた。(Master "K"私信)当時の[[裏窓]]編集長は[[須磨利之]]で編集部員は滝本喜美と浦戸(私信to A)。</ref>。
1961年(昭和36年)8月、[[浦戸宏]]が入社<ref group="注">当時、[[マンハント]]の編集に3名、[[裏窓]]の編集にキミという女性ひとりが携わっていた。[[須磨利之|須磨]]は少女雑誌『抒情文芸』の発刊準備に追われていた。(Master "K"私信)当時の[[裏窓]]編集長は[[須磨利之]]で編集部員は滝本喜美と浦戸(私信to A)。</ref>。


1962年(昭和37年)、この頃、[[須磨利之]]は少女雑誌『'''叙情文芸'''』『'''灯'''』の編集。
1963年(昭和38年)2月、『'''[[]]'''』の創刊。編集人は[[須磨利之]]。


1963年(昭和38年)、[[椋陽児]]が[[裏窓]]編集部に入る。
1963年(昭和38年)、[[椋陽児]]が[[裏窓]]編集部に入る。
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1965年(昭和40年)頃、[[浦戸宏]]は退社し個人出版社『[[白竜社]]』を設立。
1965年(昭和40年)頃、[[浦戸宏]]は退社し個人出版社『[[白竜社]]』を設立。
1966年(昭和41年)3月、『'''[[灯]]'''』は『'''[[抒情文芸]]'''』と改題。編集人は[[須磨利之]]。


1970年(昭和45年)、[[須磨利之]]と[[濡木痴夢男]]は退社して[[虻プロ]]を設立。
1970年(昭和45年)、[[須磨利之]]と[[濡木痴夢男]]は退社して[[虻プロ]]を設立。
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2011年(平成23年)時点での代表取締役社長は久保直樹。
2011年(平成23年)時点での代表取締役社長は久保直樹。
2014年(平成26年)10月22日、代官山の「風土cafebar山羊に聞く」にて『新続あるす・[[あまとりあ]] -第0刊-』イベント。[[久保書店]]との共同企画。出演:ヴィヴィアン佐藤、山崎春美、永山薫。


==所在地==
==所在地==
*東京都中野区松が丘2−21<ref group="注">1969年(昭和44年2月4日)づけで神奈川県青少年育成課から久保書店に出された有害図書関連の通知書の宛名</ref>
*東京都中野区松が丘2−21<ref group="注">1969年(昭和44年2月4日)づけで神奈川県青少年育成課から久保書店に出された有害図書関連の通知書の宛名</ref><ref group="注">[[SM大特集]]発行所であるあまとりあ社の住所</ref> 1972年1月
*東京都中野区江古田1-2302<ref group="注">[[大元社]]と同じ住所。</ref>
*東京都中野区江古田1-2302<ref group="注">[[大元社]]と同じ住所。</ref>
*東京都中野区松ヶ丘2-21-14<ref group="注">江古田1丁目の近くである。</ref>
*東京都中野区松ヶ丘2-21-14<ref group="注">江古田1丁目の近くである。</ref>
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*『[[耽奇小説]]』
*『[[耽奇小説]]』
*『[[SMコマンド]]』
*『[[SMコマンド]]』
*『[[漫画ドッキリ号]]』([[あまとりあ社]])


=== 書籍===
=== 書籍===
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*[[高橋鐵]]『'''あるす・あまとりあ 秘蔵版'''』([[あまとりあ社]], 1953)
*[[高橋鐵]]『'''あるす・あまとりあ 秘蔵版'''』([[あまとりあ社]], 1953)
*[[武野藤介]]『'''続小説あまとりあ'''』([[あまとりあ社]], 1953)
*[[武野藤介]]『'''続小説あまとりあ'''』([[あまとりあ社]], 1953)
*小西茂也訳・編『'''あまとりあ辞典'''』([[あまとりあ社]], 1953)
*[[武野藤介]]『'''風流月旦 うわき随筆選'''』([[あまとりあ社]], 1955)(装幀:[[須磨利之]]、カット:秋保正三)
*[[武野藤介]]『'''風流月旦 うわき随筆選'''』([[あまとりあ社]], 1955)(装幀:[[須磨利之]]、カット:秋保正三)
*[[高橋鐵]]『'''新・あるす・あまとりあ'''』<ref group="注">「全世界の性典による態位の研究」</ref>([[あまとりあ社]], 1955)
*[[高橋鐵]]『'''新・あるす・あまとりあ'''』<ref group="注">「全世界の性典による態位の研究」</ref>([[あまとりあ社]], 1955)
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*R. L. ディッキンソン『'''人体性解剖学図説'''』([[久保書店]], 1961?)
*R. L. ディッキンソン『'''人体性解剖学図説'''』([[久保書店]], 1961?)
*[[須磨利之|美濃村晃]]『'''スクリーン・エロティシズム2'''』([[久保書店]], 1962.12.20)
*[[須磨利之|美濃村晃]]『'''スクリーン・エロティシズム2'''』([[久保書店]], 1962.12.20)
*[[濡木痴夢男|藤見郁]]・[[森下高茂|T・C・MORISCITA]]『'''ショッキング画集1'''』([[久保書店]], 1964)([[John Willie]]、[[Eric Stanton]]などを紹介)
*[[須磨利之|美濃村晃]]『'''スクリーン・エロティシズム3'''』([[久保書店]], 1965.3.5)
*[[須磨利之|美濃村晃]]『'''スクリーン・エロティシズム3'''』([[久保書店]], 1965.3.5)
*臼井綱夫『'''色彩版 図で見る性生活入門'''』([[あまとりあ社]], 1972)
*臼井綱夫『'''色彩版 図で見る性生活入門'''』([[あまとりあ社]], 1972)
*本田徹『'''アクション・シューター 水中(秘)写真術 実践編'''』([[あまとりあ社]], 1987)


==エピソード==
==エピソード==
*社長の[[久保藤吉]]は印刷業出身。
*社長の[[久保藤吉]]は印刷業出身。戦争中に軍関係の印刷を担当していたために、戦後の紙不足の時代にも比較的豊富に印刷紙をもっていた<ref name="urado">[[浦戸宏]]私信 to U</ref>。
*前身は大元社で、舟橋聖一の『横になった令嬢』などの文芸書を出版していた。
*前身は大元社で、舟橋聖一の『横になった令嬢』などの文芸書を出版していた。



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裏窓 1957年(昭和32年)3月号

概説

1953年(昭和28)年4月1日久保藤吉により設立された出版社。久保藤吉がそれ以前から経営していた大元社と、高橋鐵と関係の深いあまとりあ社の3社は同一会社と考えて良い。中田雅久須磨利之濡木痴夢男椋陽児浦戸宏などの編集者が在籍し、『かっぱ』『裏窓』『耽奇小説』などの雑誌や、他のSM歴史上重要な書籍を発行している。

歴史

1946年(昭和21年)、久保藤吉大元社から式場隆三郎夜想』が出版。

1949年(昭和24年)頃、久保藤吉高橋鐵を知る[注 1][1]

1949年(昭和24年)11月30日、あまとりあ社から高橋鐵あるす・あまとりあ[注 2]を発行。60万部を超す大ヒットとなる。

1951年(昭和26年)2月1日、久保藤吉が編集・発行人であまとりあ創刊。発行所はあまとりあ社とある[注 3]

1953年(昭和28)年4月1日、株式会社久保書店が久保藤吉により設立。続いて、4月10日に株式会社あまとりあ社創立[2]あまとりあの実質上の編集室は高橋鐵宅。

1955年(昭和30年)、須磨利之が入社。

1955年(昭和30年)6月、少なくともこの時点であまとりあの編集人が中田雅久となっている[注 4]

1955年(昭和30年)8月、あまとりあ廃刊。終刊号の編集に須磨利之が関わっている。

1956年(昭和31年)1月、久保藤吉によりかっぱが創刊。編集人はやがて須磨利之に。

1956年(昭和31年)10月、かっぱ裏窓へと誌名変更。編集人は須磨利之

1958年(昭和33年)8月、マンハント中田雅久編集人で発行。

1961年(昭和36年)9月20日、濡木痴夢男が入社。

1961年(昭和36年)、裏窓1962年(昭和37年))1月号から須磨利之の後を継いで濡木痴夢男が編集長。

1961年(昭和36年)8月、浦戸宏が入社[注 5]

1963年(昭和38年)2月、『』の創刊。編集人は須磨利之

1963年(昭和38年)、椋陽児裏窓編集部に入る。

1963年(昭和38年)、少なくともこの頃の形式上の社長は山田忠雄[注 6]だったようだ。

1964年(昭和39年)、『マンハント』1月号で廃刊。この頃中田雅久あまとりあ社を退社。河出書房新社に移る。

1965年(昭和40年)頃、浦戸宏は退社し個人出版社『白竜社』を設立。

1966年(昭和41年)3月、『』は『抒情文芸』と改題。編集人は須磨利之

1970年(昭和45年)、須磨利之濡木痴夢男は退社して虻プロを設立。

1981年(昭和56年)1月、SMコマンド創刊。

2011年(平成23年)時点での代表取締役社長は久保直樹。

2014年(平成26年)10月22日、代官山の「風土cafebar山羊に聞く」にて『新続あるす・あまとりあ -第0刊-』イベント。久保書店との共同企画。出演:ヴィヴィアン佐藤、山崎春美、永山薫。

所在地

  • 東京都中野区松が丘2−21[注 7][注 8] 1972年1月
  • 東京都中野区江古田1-2302[注 9]
  • 東京都中野区松ヶ丘2-21-14[注 10]

代表的な雑誌・書籍

雑誌

書籍

エピソード

  • 社長の久保藤吉は印刷業出身。戦争中に軍関係の印刷を担当していたために、戦後の紙不足の時代にも比較的豊富に印刷紙をもっていた[3]
  • 前身は大元社で、舟橋聖一の『横になった令嬢』などの文芸書を出版していた。

引用文献

  1. 鈴木敏文『性の伝道者 高橋鉄』(河出書房新社, 1993)
  2. 同社HPより
  3. 浦戸宏私信 to U

注釈

  1. 久保藤吉は当時話題となっていたヴェルデの『完全なる結婚』を意識した出版を模索していたところ、東京タイムスの大村氏に高橋鐵を紹介されて訪問。書きかけの『あるす・あまとりあ』の原稿を一目見て出版を決意。式場隆三郎の推奨を得る。
  2. ヴァン・デ・ヴェルデの『完全なる結婚』を意識した作品。
  3. 株式会社になっていなかったのかもしれない。
  4. 中田雅久は創刊当時から編集の中心だったと思われる。
  5. 当時、マンハントの編集に3名、裏窓の編集にキミという女性ひとりが携わっていた。須磨は少女雑誌『抒情文芸』の発刊準備に追われていた。(Master "K"私信)当時の裏窓編集長は須磨利之で編集部員は滝本喜美と浦戸(私信to A)。
  6. 風俗資料館に存在する1963年(昭和38年)1月18日付で埼玉県から久保書店に出された有害図書関連の通知書が「山田忠雄社長宛」となっており、濡木痴夢男が「形式上の社長」とメモしている。
  7. 1969年(昭和44年2月4日)づけで神奈川県青少年育成課から久保書店に出された有害図書関連の通知書の宛名
  8. SM大特集発行所であるあまとりあ社の住所
  9. 大元社と同じ住所。
  10. 江古田1丁目の近くである。
  11. 「性交態位62型の分析」などのエロチックな内容で大ヒットとなった。
  12. 「性愛雰囲気86法の分析」などのエロチックな内容で大ヒットとなった。
  13. 「全世界の性典による態位の研究」

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