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1965年(昭和40年)5月、新藤孝衛監督『雪の涯て(青春0地帯)』(芸術映画協会) | 1965年(昭和40年)5月、新藤孝衛監督『雪の涯て(青春0地帯)』(芸術映画協会) |
2010年10月17日 (日) 20:16時点における版
にいたか けいこ、1934年(昭和9年)4月18日[1](1939年(昭和14年)4月11日という記述も過去にあった[2])
活動内容
別名
Keiko Niitaka、新高けい子、藤田恵子、工藤琳子(本名)
略歴
1934年(昭和9年)4月18日、小学校教員の両親のもと、青森に生まれる[1]。
1953年(昭和28年)、上京して東京文化短期大学に入学するが1年弱で退学[1]。
1954年(昭和29年)頃、新宿にある「ボア」という美人喫茶で働く。やがて新宿駅南口のアルサロ「ヱびす」に転職。さらに叔母が横浜桜木町に経営していたスナックに移る[1]。
1956年(昭和31年)、文化放送主催の「ミスQR[注 1]」に応募して選ばれる。発声法・演技法などを学ぶ[1]。
1957年(昭和32年)頃、文化放送の推薦で東芝レコードの準専属歌手となる。芸名は藤田恵子。地方回りの仕事。当時全盛のキャバレーでの歌い、やがて銀座「金馬車」、横浜「ナイト・アンド・デイ」の専属歌手[1]。
1960年(昭和35年)頃、西原儀一の西原企画で歌手(藤田恵子)として活動[3]。
1961年(昭和36年)頃、CMタレントと共に、映画のちょい役にも出始める[1]。
1965年(昭和40年)5月、新藤孝衛監督『乾いた舗道』(日本映画)(主演:香取環)で始めて台詞のある役[1]。
1965年(昭和40年)5月、新藤孝衛監督『雪の涯て(青春0地帯)』(芸術映画協会)
1965年(昭和40年)9月、『肉体の報酬』(葵映画)を「隠密剣士」のスタッフで撮影[3]。
1966年(昭和41年)、『愛欲の果て』で2役に挑戦[3]。
1966年(昭和41年)8月、高木丈夫監督『蛇淫の肌』 (ヤマベプロ)。
1966年(昭和41年)8月、西原儀一監督『愛欲の果て』(葵映画)。
1966年(昭和41年)9月、飛田良監督『乳房の週末』(ヤマベプロ)。
1966年(昭和41年)10月、松原次郎監督『肌に泣く女』(ヤマベプロ)。
1966年(昭和41年)10月、松原次郎監督『柔肌の掟』(ヤマベプロ)。
1966年(昭和41年)11月、飛田良監督『肉色』(ヤマベプロ、原作:花巻京太郎)。
1967年(昭和42年)1月、経堂三郎監督『愛情開眼』(ヤマベプロ)。
1967年(昭和42年)1月、経堂三郎・岸信太郎監督『縄と乳房』(ヤマベプロ、脚本:団鬼六、原作:『花と蛇』)。
1967年(昭和42年)、天井桟敷[注 2]公演『大山デブ子の犯罪』『花札伝綺』に出演。
1968年(昭和43年)、天井桟敷公演『新宿版千一夜物語』『伯爵令嬢小鷹狩鞠子の七つの大罪』に出演。
1969年(昭和44年)、天井桟敷公演『時代はサーカスの象にのって』『犬神』に出演。
1970年(昭和45年)、天井桟敷公演『イエス』『ブラブラ男爵』『市街劇・人力飛行機ソロモン』に出演。
1971年(昭和46年)、天井桟敷公演『邪宗門』に出演。
1971年(昭和46年)4月24日、寺山修司監督『書を捨てよ町へ出よう』 人力飛行機舎=ATG
1972年(昭和47年)、天井桟敷公演『走れメロス』に出演
エピソード
- 団鬼六のお気に入りのピンク女優の一人。奇譚クラブ1968年(昭和43年)5月号『鬼六談義 狐の話』に天井桟敷の末広亭公演を見に行ったことが書いてある。「大山デブ子の犯罪」新宿末広亭(1967年6月)のことか?
- 1966年(昭和41年)頃、九條今日子が寺山修司に新高を紹介し、寺山が直接西原儀一にゆずってくれと頼みに来た[3]。
代表作
- 『縄と乳房』[注 3]1967年(昭和42年)1月。企画:岸信太郎、寿御代子、製作:山邊信夫、脚本:団鬼六[注 4]、監督:岸信太郎[注 5]、出演[注 6]:枡田くに子、斎藤道子、山吹ゆかり、新高恵子、伊豆田弘、種村正、北孝二。